LGBTと聖書の福音:聖書は何を語っているか(2)聖書解釈・新約編

訳書「 LGBTと聖書の福音 」についての補足シリーズ。前回は本書のあとがきを掲載させて頂きました。今回はより具体的な聖書解釈のテーマについて記したいと思います。本書では同性愛にまつわる聖書箇所の伝統的解釈を読者が既に知っているという前提がありました。そして4章では伝統的解釈とは異なるゲイ神学の立場を紹介していました。そこではゲイ神学の立場のみが紹介され、伝統的立場は紹介されていませんでした。結果的に、日本の読者にとっては、本書の「橋渡し」の目的においても少しバランスに欠けてしまったのではないかと思います。「ゲイ神学ではない伝統的立場の聖書解釈についても説明して欲しかった」という声を何人かの方から頂いたため、補足として当ブログ記事を書かせて頂きます。

構成として

point

・伝統的解釈

・伝統的解釈に対するプロ・ゲイ神学の解釈

・個人的見解

という形で聖書に記されている同性愛にまつわる箇所が、どのように考えられてきたか概観してみようと思います。そして、この記事の目的はあくまで「聖書が何を語っているか」という視点に関して、客観的に考えることです。プロテスタント信仰の原点は「聖書のみ」(Sola Scriptura)であり、ベレアの人々が「はたしてその通りか」と聖書を調べた(使徒17:10-15)のと同じように、あくまで聖書を基準として物事の真偽を測っていくところにあります。ですから本ブログ記事でもなるべく客観的にバイアス無しに考えていければと思います。そして「個人的見解」に関しては本当に個人的見解なので、鵜呑みにせず、ぜひ一人一人ベレア人のように聖書を読んで考えていただければと願います。

また、このテーマを考える上で個人的に非常に大切だと思っていること、それは「聖書的」ということを限定的に利用しないということです。アメリカで多くの保守的な教会によって「聖書的」という盾のもと、LGBT当事者への差別や虐待が行われてきた過去は事実として認める必要があります。同性愛にまつわる「聖書的」見解を盾に、明らかに「聖書的」ではない行動に結びついてしまうという矛盾が起きているのを目撃してきました。このテーマにおいての「聖書的」正解を求める際には、もちろん該当の箇所の「聖書的」な意味をしっかりと理解することは大切です。同時に、聖書全体が語る福音、隣人愛、和解、またイエス様の社会的弱者に対しての姿勢を忘れてしまっては、聖書を振りかざし自己義認に陥るという本末転倒の結果となってしまいます。同性愛に関する聖書の記述は聖書全体の1%もありません。聖書全体が示す神様の愛の大きさ、そして値なき罪人がただ恵みによって救われたという土台の上で、謙虚さを持って考えていきたいと思います。

新約聖書②(1コリント6:9-10)(類似する1テモテ1:10は割愛)

1コリント6:9-10

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、 10  盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。

伝統的な解釈

malakoiを女性の役割をする男性、arsenokoitaiを男性同士の同性愛行為として理解する。

新しい解釈

arsenokoitaiは新約聖書特有の用語で、パウロ以前の文献には登場しないことから実際の意味は不明。Malakoiも通常「柔らかい、弱い」を意味する形容詞であり、arsenokoitaiと共に用いられているのは聖書のみ。同性愛全般を示すものではない。

個人的見解

知る

malakoiは「女々しい男性」を示す言葉として一般的に使用されており、同時に「女性の役割を果たす男性」の意味としても用いられていました。性的な罪のリストの中に含まれていること、またユダヤ教の文献の中での用法などからも、女性の役割を果たす男性のことに言及していると捉えるのは自然です。また、arsenokoitaiはパウロ以前のギリシャ語文献には存在しない言葉です。しかしギリシャ語訳のレビ記18:22にarsen(男)とkoite(ベッド)が登場することから「男と寝るもの」という意図で用いていた可能性が高いといえます。もちろん語源から意味を推測することには限界があるものの(例:英語のバタフライ)、マラコイとセットで使われていることからも妥当な理解だと思われます。[1]


[1]同性愛を肯定する理解のファーニッシュも該当箇所に関しては同様の理解をしています。ビクター・ファーニッシュ.「聖書と同性愛」.『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』.日本基督教団出版,53.


新約聖書②(ローマ1:26-27)

ローマ1:26-27

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。

伝統的解釈 

同性愛を行う者を神は滅びへと引き渡された。自然な関係とは男女の性的関係であり、自然に反する関係とは同性間の性的関係を指している。

新しい解釈

1・ローマ社会で行われていた男娼のことを指しているため同性愛全般には適応されない。[1]

2・パウロは「自然・不自然」を当時の家父長的文脈で用いており、異性間と同性間の関係について述べているわけではない。


[1] Robbin Scroggs, The New Testament and Homosexuality (Philadelphia: Fortress Press, 1983),115-118.

個人的見解

1・ローマ社会で行われていた男娼のことを指しているため同性愛全般には適応されない

当時のローマ社会において神殿娼婦や少年男娼は一般的でした。ローマ1章は異邦人の罪に関して言及している箇所なので、ローマ社会に蔓延る男娼と抑圧的支配に言及していた可能性はあるでしょう。しかしパウロはここで「男と少年」ではなく成人男性を示す「男と男」と表現しています。また、「互いに(allelon)情欲に燃える」と言う表現は、レイプや男娼などの一方的な力関係を示す文脈では用いられない表現です。[1]また女性が神殿娼婦や少年男娼と行為を行なっていた記録は存在しないため、27節で女性間について言及されていることは、パウロが男娼のみを意図していたとする節を弱めます。


[1] William Loader, Two Views on Homosexuality, the Bible, and the Church (Grand Rapids: Zondervan Academic, 2016),40.

2・パウロは「自然・不自然」を当時の家父長的文脈で用いており、異性間と同性間の関係について述べているわけではない。

古代ローマ社会において「自然・不自然」は力関係を表す言葉として多々用いられてきました。特に聖行為における役割において、攻め手(男性)と受け手(女性)の役割を守ることが「自然」とされ、その逆は「不自然」とされていました。[1]しかし、多くの聖書学者は、パウロが述べている「自然」は当時のローマ社会の中で何が「自然」とされていたかではなく、創世記の創造における秩序について言及していると理解しています。特に、この2節で用いられている「男たち(thelus)」と「女たち(arsen)」は一般的な男女を表す(aner)と(gyuiner)ではありません。この二つの単語のセットはギリシャ語訳旧約聖書の創世記1:27で用いられており、また聖書の中でこの2つの単語がセットで登場する時、それは全て創造の文脈です(例:マタイ19:4)。同性婚を容認する立場のウィリアム・ローダー氏も、パウロの「自然」の理解に関して同様の見解を展開しています。[2]以上のことから、パウロは同性愛全般について言及していないと考えるのは難しいのではないかと思います。

しかし、1章は異邦人の罪に関して言及されているという文脈理解は重要です。この章の罪のリストの中には「ねたみ」や「陰口」も含まれます。これらは偶像礼拝の「結果」神が引き渡された証拠であり、「原因」ではありません。[3]もし同性愛行為が「原因」で滅びに引き渡されたのであれば、陰口を言っている人も滅びることになってしまいます。また、ローマ2章でパウロは、「ですから全て他人を裁く者よ。あなたに弁解の余地はありません。」と、裁く側に自らを置いて罪のリストを読んでいた読者に対する強烈なカウンターを見舞います。リチャード・ヘイズが指摘するように、もし私たちがこの箇所を盾に、自らの罪深さを棚に上げて他者を糾弾するのであれば、2章1節の記述は私たちに向けられることになるでしょう。[4]


[1] Matthew Vines, God and the Gay Christian (Colorado Springs: Convergent Books, 2015), 107-111.

[2] William Loader, Two Views, 39.

[3] リチャード・ヘイズ.「体の贖われることを待ち望みつつ」. 『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』.日本基督教団出版,27

[4] ibid., 29.

補足:聖書釈義と解釈

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以上、主要な聖書箇所の理解の違いについて概観しました。聖書著者の意図を汲み取ろうとする「釈義」のレベルにおいて、特にパウロ書簡において「同性愛全般について言及していない」とする釈義は説得力に欠けるように思います。しかしこれはあくまで釈義レベルでの議論です。例えば新約学者のローダー氏やジェームズ・ブラウンソン氏などは、パウロは同性の性行為に関して否定的であったとしつつも、それが直ちに現代に適応されるものではないと解釈します。ローマ社会の文脈では同性愛には必ず過剰な性の奔放さや支配関係が存在していたため、現代のような一対一の誠実な関係には適応されないという理解です。反対に、当時の社会に(全く同じとは言わないとしても)現代のような対等かつ一対一の同性愛関係は存在していたとする歴史学者も存在します。例えばレズビアン研究の第一人者であるベルナデット・ブローテン氏はLove Between Womenにおいて、女性同士の対等な恋愛関係、婚姻関係に近いものが当時も多数存在していたことを示しています。確かに当時の文脈で語られたものを直ちに普遍的な法則に変換してしまうことにはリスクが伴います(例:パウロの女性の被り物に対する命令)。[1]同時に、いかに文化的背景が変わっても、神のかたちに創られた人間の性質や人間の罪性は変わりません。そうでなければ、聖書は全て特定の時代背景に対してのみ有効な書物であり、現代には適応できないことになってしまいます。聖書を誤りなき神の言葉として理解する福音的解釈においては、著者の意図を理解した上で、現代との文化的違い、同時に変わらない普遍性を見極めていく必要があるでしょう。


[1] 聖書記者の意図から現代の適応を巡る異なる方法論に関してはFour Views on Moving beyond the Bible to Theology (Grand Rapids: Zondervan, 2009)等を参照。

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