十字架は児童虐待?贖罪論再考 ②刑罰代償モデル

「丘の上の 主の十字架 苦しみのしるしよ。
ひとの罪を 主は身に負い 与えたもう、いのちを。」
(讃美歌21 303 丘の上の主の十字架 “Old Rugged Cross”)

刑罰代償モデルとは

十字架が「どのように」(how)して私たちの罪の問題を解決したのか。様々な贖罪モデルを検討するシリーズの中でまず最初に扱うのは、最も有名な「刑罰代償」モデルです。私たちが受けるべきだった罪の刑罰をイエス・キリストが十字架の上で代わりに負ってくださったという十字架理解です。クリスチャンの殆どが「贖罪」と聞いて思い浮かべるものだと思います。

簡潔に述べると以下の理解です。

刑罰代償モデル

1・全ての人間は罪を犯す
2・神は義なるお方であり、罪を見逃すことが出来ない
3・人間は罪のために永遠の刑罰(死)を受ける存在である
4・キリストは人間の罪の身代わりとして十字架にかかられた
5・キリストの身代わりの死によってクリスチャンに罪の赦しが与えられる

そんなこと知ってるよ!と思う方も多いのではないでしょうか。それだけ多くのクリスチャンにとって十字架の救い(贖罪)は刑罰代償モデルと結びついて理解されています。特にプロテスタント教会においては宗教改革以降近年まで圧倒的に主流の贖罪理解でした。(例:ウェストミンスター信仰告白11.3など) しかし近年、刑罰代償モデルは最も様々な批判を浴びているモデルでもあります。教会の歴史において刑罰代償モデルは比較的新しく、初代教会の中では異なる贖罪モデルも多数存在していました。そのことから近年多くの神学者は、刑罰代償モデル以前の初代教会の贖罪理解へ「原点回帰」することを呼びかけています。では刑罰代償モデルはどのような批判を浴びているのでしょうか?大きく分けると以下の三つが挙げられます。

刑罰代償モデルへの批判

主な批判

1・聖書的批判:聖書的な根拠が弱い
2・倫理的批判:愛なる神の性質と矛盾・神の児童虐待
3・論理的批判:身代わりに刑罰を受けることの論理的矛盾

1・聖書的批判:聖書的な根拠が弱い

意外だと思われるかもしれませんが、一つ目は聖書的根拠が薄いと言う批判です。「いやいや、聖書を読めば明らかでしょ」と思われる方も多いと思います。確かに新約聖書は、人間の罪のためにキリストが十字架にかかったという証言で溢れています(1ペテロ3:18、2コリント5:21)。しかしポイントはイエスの死を「身代わり」と捉えるかどうかです。例えばフラー神学校の新約教授であるグリーンは「贖罪的な生贄によって怒りを宥める必要があるような神理解は聖書的な根拠が無い」と記しています。[1] 刑罰代償以外の勝利者イエス(Christus victorモデル)や東方教会のアイレナイウスのモデルなどが見直されるようになり(詳しくは次回以降)、十字架を「身代わりの生贄」として捉える立場は神学者の間では少数派になりつつあります。

また、十字架刑の執行者は誰なのかという問題もあります。例えばリベラル・クリスチャン情報局の富田正樹氏は「聖書には、神がイエスを罰したという記述は一切ない。」と言い切っています。[2] この「神が」という主語が重要です。例えばグレゴリー・ボイドは、「刑罰代償説の10の問題点」という記事の中で、キリストの十字架の贖いを信じることは「神が」キリストを罰したこととイコールではないとし、あくまで十字架につけたのは人間だとします。[3] つまり神が主体的にイエスを身代わりに裁いたのではなく、人間の手によって十字架にかかることを良しとされたという理解です。(満足説の一種)刑罰代償モデルを否定する聖書学者はドッドなど[4]を筆頭に20世紀以降リベラル陣営の中では多数存在していましたが、グリーンやボイドなど一部の福音派の学者が刑罰代償モデルを否定するようになったのは比較的最近の傾向です。

2・倫理的批判:愛なる神との矛盾・神の児童虐待

 二つ目の批判は倫理的批判です。神は愛なのだから、裁きを必要とする神というのは愛の性質に反しているというのが主な主張です。同様の批判は古くはリッチェルなどが行ってきましたが、近年では福音派の中でも同様の主張をする学者が増えてきました。[5] 聖書の神はギリシャ神話の神々のように怒り狂い、生贄によって宥められないと怒りがおさまらないような神では無い、とする批判です。また、フェミニスト神学者は父が子を十字架上で怒りを宥めるために殺すというのは児童虐待(Divine Child Abuse)以外のなにものでもなく、そのような教理は虐待や暴力を助長する、と指摘します。[6]

3・論理的批判:身代わりに刑罰を受けることの論理的矛盾

 また論理的な問題として、そもそも刑罰の代償が可能なのか、他者の罪を代わりに受けるということは論理的に可能なのかと言う批判があります。死刑囚の代わりに他の人が身代わりに処刑されたとしたら、それは正義の執行ではなくむしろ不正義であり悪です。無実の存在を代わりに罰するということが論理的に正義の執行になり得るのかという問題です。

以上が刑罰代償モデルに対する批判として挙げられている主な点です。これらの批判は妥当なのでしょうか?聖書・倫理・論理の観点から検証したいと思います。

補足:歴史的批判

刑罰代償モデルはキリスト教の歴史の中で比較的新しいモデル(現在の形になったのは宗教改革以降)であり、初代教会の贖罪論とは異なるという批判は多数存在しています。しかしそれに対して刑罰代償モデルに近い考え方はキリスト教の歴史の初期から存在していたという反論もあります。

例えば教会史で有名なエウセビウス(AD 263-339)は「福音の論証(Proof of the Gospel)」の中でイザヤ53:5を引用した後に以下のように記しています。

「彼(イザヤ)は、キリストはいかなる罪をも犯さなかったにもかかわらず、人類の罪をご自身に負われることを示している。そのために、彼は罪人の刑罰を受け、彼らの代わりに苦しむことになる。」(Proof of the Gospel, 3.2 筆者訳)

人類の代わりに罪の刑罰を負われるという表現は十字架の刑罰代償的理解だと指摘されています。その他刑罰代償モデルに近い贖罪理解をしている例として殉教者ユスティノス、オリゲヌス、アタナシウスなどが挙げられています。
(Micahel Vlachの”Penal Substituion in Church History“では該当する引用箇所が簡潔にまとめられています)

1・聖書的整合性

 刑罰代償モデルの聖書神学的な根拠については一冊の本がかけてしまうテーマなので、ここで全て紹介することは出来ません。しかし、新旧約聖書を通して刑罰代償モデルを支持する箇所は多数存在しています。(もっと詳しく知りたい方はJ. I. パッカーの In My Place Condemned He Stood: Celebrating the Glory of the Atonement がお勧めです。少し専門的ですが、ケンブリッジ大学の新約学者ガサーコールのDefending substitution: An Essay on Atonement in Paul もおすすめ)

旧約聖書には動物の生贄、特に全焼の生贄が罪人の罪の身代わりの「宥め」の捧げものとして描かれている箇所が多数存在します。

例えばレビ記1:4では
「その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。」と記され、レビ記17:11説では「肉のいのちは血の中にある」こと、そして祭壇の上の生贄が「あなたがたのたましいのために宥め」であり、「いのちとして宥めを行うのは血である」ことが記されています。

またイザヤ53章、特に4-5節は刑罰代償モデルを支持する旧約預言として広く知られています。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」

(ちなみにN.T.ライトは罪と義の「転嫁」の教理を否定することから刑罰代償モデルを否定していると誤解されていますが、刑罰代償モデルを否定したことはなく、むしろイザヤ53章は刑罰代償モデルの最も有力な聖書的根拠であると語っています。[7]

これらの旧約の宥めとしての生贄理解は新約著者によってイエス・キリストの十字架の死と結び付けられます。ヘブル書2:17では「イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。」、また9:11では「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」と記され、ローマ3:25では「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。」と、旧約の生贄との関連でイエスの十字架の死が描かれています。

以上いくつかの中心的な箇所を見ると分かるように十字架を旧約の「宥め」と関連づけ、代償的な「身代わりとしての死」として描いている箇所は多数存在しています。もちろんそれぞれの個々の箇所をボイドのように異なる贖罪モデルの解釈で読むことも可能でしょう。しかしここの箇所に関して様々な解釈はあったとしても旧新約聖書全体を見た時、刑罰代償モデルを全否定するのには限界があるのではないかと思います。刑罰代償以外のモデルも検討することを推奨している『福音の再発見』のマクナイトでさえ、「刑罰代償説を完全に否定することは不可能です」と自身のブログで記しています。[8]

ちなみに:宥め?贖い?

ローマ3:25で「宥め」と新改訳聖書で訳されている言葉は、聖書学者達の間で意見の相違がある箇所です。例えば新共同訳聖書では宥めではなく贖いと訳されています。
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」(新共同訳聖書)

これはἱλαστήριονという単語を「宥め(propitiation)」と訳すか「贖い(expiation)」と訳すかの違いなのですが、実は単に単語のニュアンスレベルではない神学的な違いが訳によって現れています。

「宥め」とは神の怒りをおさめるための犠牲であり、その対象は神です。しかし「贖い」とは代価を支払うという意味であって、その対象は明確ではありません。20世紀初頭の新約学者のドッド以降、伝統的には「宥め(propitiation)」と訳されていたἱλαστήριονを贖い(expiation)と訳す流れが生まれました。贖いは罪のための代価を支払うという、より広い意味をもっていますが、宥めはその対象(神に)と手段(身代わりとしての裁き)がある程度限定されています。そのことから保守的なJ.I.パッカーやジョン・マーレーなどの保守的な神学者は、十字架が神の怒りをおさめるものであるという従来の解釈に立ち、宥め(propitiation)を用いることを主張します。また、グルーデムは贖い(expiation)と訳すことは福音の意味を薄めるリベラル神学者の試みであると痛烈に批判しています。

BUT! 十字架が宥めか贖いかというのは非常に重要な議論ですが、実は刑罰代償モデルを検討するにあたって直接関係はありません。組織神学者オリバー・クリスプが指摘するように、たとえローマ3章などの箇所を宥めではなく贖いの代価として解釈したとしても、刑罰代償モデルの本質は変わりません。[9]もちろん従来の「神の怒りを宥めるため」という理解とは異なる理解になりますが、人間の罪の身代わり(代償)として十字架でキリストが死なれたという贖罪理解自体は変わらないからです。なので厳密に言うと「聖書には、神がイエスを罰したという記述は一切ない」というような批判は刑罰代償モデル自体への批判にはなっていません。十字架を伝統的な宥め(propitiation)として理解したとしても、贖い(expiation)として理解したとしても、刑罰代償モデル自体は成立します。(「細かい!」と思われる方も多いと思われますが、聖書を土台にこういう細かい議論を積み重ねるのが組織神学の面白いところでもあり、辛いところでもあります。。。)

2・倫理的整合性

神的児童虐待?

 代表的な倫理的批判として挙げられるのはこのモデルが「神的児童虐待」であるという批判です。これは刑罰代償モデルだけに限定した批判ではありませんが、特に刑罰代償モデルに対して近年挙げられることが多い批判です。父が子供を自身の目的のために生贄に捧げるという児童虐待とも呼べるような道徳感を神に投影するだけでなく、そのような世界観を生み出す神学は暴力を助長するというのです。この批判は妥当なのでしょうか?

 確かに自らの怒りをおさめる(宥める)ために自分の子供を殺さないと気が済まないというような父親像を神に当てはめるのなら、それは「神的児童虐待」と言われても仕方ないでしょう。「そんな神なら信じたく無い」という反応も理解出来ます。しかし、この神観には一つ根本的な問題があります。それは「三位一体」を全く考慮していないと言う点です。人間レベルでは父親と息子は全く独立した別の存在です。しかし父なる神と子なる神はそうではありません。初代教会の時代から、正統的なキリスト教会は、聖書の記述を元に父と子と聖霊は三つの位格を持っていながら(本質と神性において)一つであると告白してきました。(例:アタナシオス信条)ギリシャ神話のような異なる神々が存在している世界観ではないのです。父なる神と子なる神はひとつですから(ヨハネ10:30)、人間の父と子との関係性とは全く異なります。十字架の御業は父、子、聖霊の三位一体の神がなしとげた御業であり、父なる神もキリストと共に十字架の痛みを負われたのです。三位一体と十字架に関しては様々な見解と議論がありますが[10]、少なくとも人間間の「児童虐待」という理解は当てはまりません。

神の愛の性質に反する?

 次に、十字架によって神の怒りが宥められる必要があるという教理は神の愛の性質に反するという指摘があります。神は愛であり(第一ヨハネ4:16)、神の性質は変わらない(ヤコブ1:17)というのが聖書全体の証言です。愛の神が時に怒りの神に変わるというのはまるで二重人格のように神の性質が変化することを意味するのでは無いかという点です。

 この批判の妥当性を考える時に重要なのは「怒り」や「愛」などの性質をどのように定義するかということだと思います。哲学者フォイエルバッハは、神は人間の自己意識の投影に過ぎないと述べ、キリスト教を批判しました。[11]しかし聖書は人間こそが神のかたちに創造された存在であると述べます。人間の自己意識を神に投影しているのではなく、逆に神のかたちが人間に現れているのです。そして神は聖書を通してご自身を明かされ(啓示)、人間が理解できるように寄り添ってくださる方です。(カルバンはそれを「適応の原理」(accommodation) と呼びました。)その人間の理解に「寄り添う」方法のひとつとして聖書には擬人的表現が多数登場します。(例:目や手、エデンの園を歩き回るなど)人間が理解出来るように、所謂比喩表現(メタファー)を通して、人間の言葉で神様はご自身を明かされるのです。ですが、比喩表現は比較している対象と何かしら重なる部分はあったとしても全てが一致しているわけではありません。(完全一致していたら比喩ではなくなってしまいます)なので神の性質について「愛」や「怒り」などの言葉を用いて聖書が説明する時、それは人間に理解出来る範囲で神のご性質を表した擬人的表現です。更に、人間が神のかたちに作られているのであって、逆(神が人間の投影)では無いので、人間の愛や怒りの定義から神の性質を導き出そうとすることは出来ません。神の「愛」と「怒り」の関係を考える際にも、人間の感情的な基準を神に当てはめようとすることには限界があります。クリスプが述べるように聖書の神の怒りとは、「神の正義の執行を人間が受け取る(理解する)ための表現」[12]です。人間的な「怒り」のイメージやフィルターを外して考えるなら、十字架は神が自らの怒りを落ち着かせるための暴力的行為ではなく、神の愛の行いであり、同時に正義の執行であると捉えることができます。

(十字架と暴力の関係については、他にも様々な議論が神学者の間で繰り広げられています。しかしそれらは刑罰代償モデルに限定されたことではないのでここではこれ以上深掘りしないことにします。例:John Sanders, Atonement and Violenceや Hans Boersma, Violence, Hospitality and the Cross等参照)

ちなみに:神のジレンマ?

伝統的には刑罰代償モデルは神の裁きと愛のジレンマの解決案として理解されてきました。神は愛である、しかし同時に義でもある。愛である神は人間を救いたいが罪を罰する必要がある。そのジレンマを解決するために十字架が必要だった、と言う理解です。讃美歌「十字架のもとに」の歌詞が良い例です。「主の十字架こそ父の神の正義と愛との出会うところ」十字架が愛の行いであり正義の行いであったというのはその通りなのですが、それを神の「ジレンマ」として表現することには注意が必要です。なぜならそれは「愛」と「正義」が相容れないものであるという前提があるからです。それこそ神が愛と正義で揺れ動いているような多重人格的なイメージを作り出してしまいかねません。しかし神にとって愛と正義の矛盾は存在しません。十字架は愛と正義のバランスを取るための苦肉の策ではなかったからです。

3・論理的整合性

また論理的な問題としては他者の罪を代わりに受けるということは論理的に可能なのかと言う批判があります。確かに罰金などを誰かが「肩代わりする」というレベルにおいては罰則を他の人が代わりに支払うことは可能でしょう。例えば子供が車で事故を起こしてしまい、罰金を親が肩代わりするなどは実際に考えられるケースです。しかし、厳密に言うと「肩代わり」した人は代わりに「刑罰」を受けているわけではありません。

またもっと極端な例で言うと、もし死刑囚の代わりに他の人間が身代わりに処刑されたとしたらどうでしょうか?それは正義の執行ではなくむしろ不正義になってしまいます。無実の人が罪人の罪を代わりに負うことは論理的に可能なのでしょうか?聖書は確かに第二コリント5:21のように、キリストが私たちのために「罪とされた」と記しています。そのことから伝統的には、神が無罪のキリストに人間の罪を「転嫁」し、あたかも「罪があるかのように」みなして裁いたと考えられていました。しかしこの罪の転嫁(またはキリストの義の転嫁)という法廷的な考え方は近年聖書学者や神学者から批判を浴びています。人の罪は誰かに渡す(転嫁)ことが出来るような性質のものではなく、当時のユダヤ文化でもそのような思考は無かったという批判です。(特にN.T.ライトは罪や義の「転嫁」の理解については聖書的では無いとして批判しています。例:『使徒パウロは何を語ったのか』。伝統的立場からのライトへの反論としてはジョン・パイパーの『義認の未来』参照。)

この無罪の存在を罪に定めるという論理的課題は刑罰代償モデルの様々な批判の中で最も難しい課題ではないかと思います。この課題を解決する鍵を握るのは、パウロやヨハネが強調したクリスチャンがキリストと一つとなること、神学用語で「キリストとの一体化」(Union with Christ)と呼ばれる概念を十字架の贖罪と関連して考えることが必要になってきます。しかしそれは刑罰代償モデルとは多少異なるモデルになるので、最後に自分の見解として紹介しようと思います。

次回は勝利者イエス(Christus Victor)モデルを扱います。

今回取り扱うモデル

1・刑罰代償モデル (Penal Substitution):最も主流、かつ代償的暴力の問題などから近年最も批判されているモデル
2・賠償説&勝利者イエスモデル (Christus Victor):刑罰代償説以前のモデルと現代版に改良したアウレンの勝利者イエスモデル。近年非常にポピュラーになりつつあるモデル。
3・東方神学の贖罪モデル (Theosis model):エイレナイウスなど。西方教会とは異なる「神化」的アプローチ。近年西方教会(プロテスタント・カトリック)でも見直されつつある。
4・代理苦説 or 非刑罰的代償説 (vicarious penance or non-penal substitution):近年特に哲学的神学者から注目を浴びつつあるアクィナスの贖罪論を土台にした刑罰を伴わない代償説。
5・キリストとの一体化モデル (union with Christ):パウロが強調したキリストとの一体化を中心に贖罪を再構築するモデル。オランダ改革派などカルバンの贖罪理解を復興する流れから。

[1] Joel B. Green, Mark D. Baker, Recovering the Scandal of the Cross, 51

[2] イクトュス・ラボ、『贖罪論』―論点の整理と対話への道(2)https://ixthus.jp/2020/05/31/atonement2/

[3] Gregory Boyd, “10 problems with the penal substitution view of the atonement”
https://reknew.org/2015/12/10-problems-with-the-penal-substitution-view-of-the-atonement/

[4] The Bible and the Greeks (London: Hodder and Stoughton, 1935), 92-95

[5] 例:Steve Chalke and Alan Mann, The Lost Message of Jesus (Grand Rapids: Zondervan, 2003)

[6] 例:Peacore L, The Role of Women’s Experience in Feminist Theologies of Atonement. Eugene, OR: Pickwick 22 Publications, xiii.

[7] N. T. Wright and Old Testament Sacrifice. 
https://youtu.be/3-pLwRMv-wk

[8] Scot McKnight, “Penal Substitution is Unavoidable” https://www.patheos.com/blogs/jesuscreed/2016/11/14/penal-substitution-is-unavoidable/

[9] Oliver Crisp, Approaching the Atonement, 98

[10] 例:十字架上での神の痛みを強調した北森嘉蔵の「神の痛みの神学」が容態変化説であると批判されたように、三位一体と十字架の御業の関係は一筋縄ではありません。

[11] ルートヴィヒ・フォイエルバッハ、『キリスト教の本質』

[12] Oliver Crisp, Approaching the Atonement, 103

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