要約版:宗教改革の誤りを正す?N.T.ライトの義認論に対する改革派的調停案(前半)

*クリスチャン新聞11月22日から12月6日に渡って掲載させていただいた連載「宗教改革の誤りを正す?N.T.ライトの義認論に対する改革派的調停案」の記事をいのちのことば社の許可を得て掲載しています。

(第一回目:11月22日掲載分)

背景

「信仰義認」とは、信仰によって、信じる者にキリストの義が与えられること(転嫁)として伝統的に考えられてきました。しかし近年、N.T.ライトを始めとするNPP(パウロ研究の新しい視点)の立場に立つ学者達は、従来の考えは宗教改革者達によるパウロ理解の誤解だったと主張しました。中でもライトは福音派の聖書学者であったためー彼は自由主義神学に対してイエスの復活の史実性を学問的に論じましたーアメリカでは、ライト派VS改革派という福音派内での論争が巻き起こりました。先日邦訳されたジョン・パイパーの「義認の未来」はまさにその論争の最中に記されたものです。

議論が過熱する最中、建設的な神学対話を呼びかける動きが起こります。その発起人の一人が保守的改革派の土壌であるウェストミンスター神学校出身で、現在はトリニティ神学校で組織神学の教授を勤めるケヴィン・ヴァンフーザーです。マクグラスが「この時代における最も重要な声の一人」と評価するほど、教派を超えてその著作が読まれている神学者でもあります。さらにパイパーとライトの双方とも親交のある[1]ヴァンフーザーは、2010年に『宗教改革の過ちを正す?』[2]と題し、N.T.ライトの義認論に応答する講演を行なっています。福音派を分断しかねない議論に対して、対立構造を乗り越える調停案を提示する貴重な講演です。[3] 今回はその講演の内容を4回に分けて簡潔に要約させていただきます。

1・問題の所存

 ヴァンフーザーはまずライト神学が投げかける課題を明らかにします。ライトは伝統よりも聖書の権威に従う姿勢を貫き、宗教改革の背景ではなくパウロの背景―当時のユダヤ教の文献[4]―を通してパウロを理解するべきだと主張します。さらにライトは個々の聖書箇所を、聖書が描く「大きな物語」を通して解釈することを提案します。ヴァンフーザーはライトの伝統より聖書を重んじる姿勢を評価しつつ、同時にライトの方法論が、時にパウロが意図していない「物語」を個々の聖書箇所に読み込んでいないかと問います。また、ライトが重視する当時のユダヤ教の背景理解自体も近年の解釈であり、その理解が変化する可能性も十分あることを指摘します。そして当時のユダヤ教文献や宗教改革者の文脈という聖書外の文脈以上に、聖書そのもの[5]をパウロを理解する上での重要な文脈として捉えるべきであると述べます。

またライトは福音とは「キリストがユダヤ人のメシアとして、復活を通して全世界の王となられた宣言」であるとします。ヴァンフーザーは、ライトの旧約の契約を重んじる姿勢や、個人主義ではなく共同体に焦点を当てている点を、個人主義化した現代のアメリカにおいて必要な視点として評価します。しかし問題はライトが肯定していることよりも否定している事柄にあるとします。ライトは、個人がいかに救われるかについてパウロは語っていないと主張[6]しますが、個人の救いに関する言及が曖昧であれば「イエスが王となられた」という宣言は「素晴らしい真実の半分[7]」になってしまい、罪人に対する良い知らせとなり得ないのではないか、とパイパーと共にヴァンフーザーは疑問を投げかけます。そしてパウロが「救われるためには、何をしなければなりませんか」という問いに対して「イエスキリストを信じなさい」(使徒16:30)と答えていること等から、パウロは個人の救いに関しても語っていることを指摘するのです。

(第二回目:11月29日掲載分)

2・NTライトの義認論と従来の義認論

前回はライトの神学的方法論全般に関してでしたが、いよいよ本題である「義認論」に入ります。ヴァンフーザーはまず、ライトの義認論が議論を巻き起こしている大きな理由は宗教改革の形式原理(聖書のみ)を内容原理(信仰義認)と対峙させていることにあるとします。ライトは宗教改革を「正そう(Wrighting)」としているのであり、ライト自身は宗教改革の良き伝統は「何一つ失われていない」と述べます。しかし、改革派の視点から見るとまるでパウロ神学がバラバラになってしまっているかのように見えるのです。

 例えば従来「神の義」とは「神の正義を執行する意思」であり、神自身の義という性質に物事を適応させることだと考えられてきました。[1]しかしライトやパウロ神学の新視点(以下NPP)の立場において、神の義とは「神の契約への忠実さ」を表す専門用語なのです。神の正義の執行は、「イスラエルを通して世界を正す」という契約への忠実さの一つの側面だとライトは捉えます。[2] 新約聖書においてイエスキリストを通して示された「神の義」(例:ローマ3:21等)とは、「アブラハムを通して全世界を祝福する」と言う契約の成就だと捉えるのです。神の義を伝統的な「神の正義の執行」と捉えるか[3]「契約への忠実さ」と捉えるかが従来の伝統とNPPの重要な相違点です。

ではライト神学の枠組みにおいて、私たちが義とされる(義認)ということはどのような意味を持つのでしょうか。ルターは義認とは神が罪人を「義と宣言する」ことであると捉えましたが、ライトにとって義認とは「契約メンバーシップの宣言」です。つまり義認は「どうすれば神の民に入ることが出来るのか」という事柄ではなく、「どのようにしてその人が共同体に加わっているのか」を判断するものなのです。[4] 義認において、イエスキリストの義が罪人に転嫁されるという考えは否定されます。従来考えられていたような救いの順序(義認→共同体への参与)ではなく、共同体へのメンバーシップが救いの問題に先行し、それを形成するのです。さらにライトは「信仰」とは義と認められるための「手段」ではなく、義と認められた者の「印」だと捉えます。その意味でライトの救済論は教会論であるとも言えます。しかし信仰が共同体への入場券ではなくメンバーシップのバッジだとしたら、どうすれば共同体に入場できるのかという疑問が生まれます。ここでも再び改革派の批判の矛先はライトの主張よりも彼が否定している事柄(信仰とは共同体に加わる手段ではない)に向かうのです。「イスラエルの共同体に加わる」という明快なライトの「義認」の枠組みも、パウロの看守やパウロ自身など、共同体的ではない個人の回心をどう捉えるのかという問題が残ります。

3・前進への道?「キリストとの結合」

ヴァンフーザーはライトの義認論と従来の宗教改革の枠組みとの違いを概観した後に、自身の調停案を提示します。New Perspective on Calvinと呼ばれている近年のカルバン研究では、カルバンは義認と聖化を「キリストとの結合」というより大きな枠組みの中で捉えていたことを提唱しています。[5] 興味深いことにこれはNPPが発見したと主張する事柄(義認と聖化の繋がりや義認の共同体的側面)と類似しているのです。カルバンの「キリストとの結合」の扱いは、義認論が法廷的(従来の立場)か共同体的(NPPの立場)かという単純な二元論ではないより広い土台を提供します。[6]「キリストとの結合」のテーマは新旧のパウロ研究が出会う土台となるのです。(続く)


[1] Herman Bavinck, Reformed Dogmatics vol. 2, p.21-28.

[2] Wright, Justification, 65.

[3] Henri Blocher, “Justification of the Ungodly,” in Justification and Variegated Nomism, ed. D. A. Carson, 476.

[4] Wright, What Saint Paul Really Said, 119.

[5] カルバン後の正統主義時代において義認が聖化より優先され、切り離されてしまったことに対する批判を含む。Richard B. Gaffin Jr., “Biblical Theology and the Westminster Standards,” WTJ 65, 165–79.

[6] J. Todd Billings, “John Calvin’s Soteriology: On the Multifaceted ‘Sum’ of the Gospel,” International Journal of Systematic Theology 11, 428-47.


[1] パイパーとは『空想的合理主義者―CSルイスの著作における神・命・想像力』を共著し、ライトとは『神学的解釈辞典』を共に編集しています。

[2] 原題Wrighting the wrongs of the Reformation?

[3] ホウィートン大学のYouTubeにて公開されています。https://www.youtube.com/watch?v=HwIifBl-H5I&t=2018s

[4] いわゆる第二神殿期ユダヤ教文献

[5] 特にパウロ書簡と使徒の働き。「聖典的パウロ」理解

[6] 個人の救いではなく、イスラエル共同体に加えられることであるとします

[7] 改革派神学者マイケル・ホートンのライト批判の引用

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です