十字架の意味(how)を考える:贖罪論再考 ①導入

今回はクリスチャンにとって最も身近な組織神学のトピックでもある十字架の意味について、贖罪論(atonement)」を取り上げたいと思います。

1・WhatとHowの違い

皆さんがもし、初めて教会に来た人に「十字架の意味」について質問されたらどのように答えるでしょうか。おそらく多くの人は、「イエス・キリストの十字架によって人間の罪が赦され、永遠のいのちが与えられる」ことなどを説明するのではないかと思います。歴史上、ほとんどのクリスチャンがそのように救いを理解してきました。しかしこれらは私たちが何を(what)信じているかということであって、それがどのようにして起こるのか(how)ということについては触れていません。

例えば水道の蛇口を捻ると水が出るという事実(what)と、どうして水道の蛇口を捻ったら水が出るのか(how)は別です。同様に、イエス・キリストの十字架の贖罪(atonement)によって私たちの罪が赦された(what)ということと、イエス・キリストの十字架の死と復活が、私たちと神様との関係にどのような変化をもたらしたのか(how)ということも別の事柄です。神学用語で「贖罪論」というと何かややこしい響きがありますが、要するにこの「how」の部分を聖書全体の証言を元に、説明することを目的としています。

補足:論?説?

日本語では〜論、また〜説はそれぞれ異なる響きを持っていますが、案外その区別は曖昧です。ザックリ〇〇論は○○について論じること(例:人間論、神論)、○○説はまだ結論が出ていない・検証されていない事柄(例:水曜日のダウンタウンの〜説)と区別されている節があります。ただ、この説と論の区別の仕方、使い分けは言語によってもかなり変わります。

例えば「地動説」はtheory of 〜ではなくHeliocentrism。逆に日本語では説ではなく「論」として訳されている進化論はtheory of evolution。そう考えると日本語における論と説の分類がどのようになされているのか少し曖昧な気もしています。(詳しい方教えてください!)十字架の意味について考える時、カテゴリー全体を「贖罪論」と呼び、解釈一つ一つに関しては「刑罰代償説(Penal Substitution Theory)」のように説を一般的に用います。ですが、今回様々な解釈を考察する上ではあえて〇〇論や〇〇説ではなく「モデル」という表現を使用しようと思います。(モデルと言う言葉は、あくまで分かりやすいように単純化した「例」としての響きを持っているのと、論や説という呼び方より響きがニュートラルなので)

2・歴史上存在してきた様々な解釈

実は、この私たちの信仰の根幹であるこの「十字架の意味」のhowの部分に関して、歴史的に全てのクリスチャンが同意してきたわけではありません。「十字架によって罪の赦しがもたらされた。」この点においては教会史上ほとんど一致していても、それがどのように起こったのかについては様々な解釈がありました。その他の三位一体論やキリスト論に関しては、ニカイア公会議(325)やカルケドン公会議(451)などで議論され、信仰告白として記されています。例えば三位一体論に関して言うとイエス・キリストは父なる神と同質(Homoousion)であるということが確認され、それ以外の立場は異端として排除されました。

異端として排除された例

・サベリウス主義:神がキリストにおいて人間という容態に変化したとする(例:三位一体を水、気体、氷の変化として説明する例え)
・アリウス主義:キリストが父なる神よりも劣っているとし、御子が存在していなかった時があるとする。325年のニカイヤ公会議で異端とされる
・ネストリウス主義:キリストの中に神の性質と人間の性質が別々に存在しているとする(例:三位一体を卵の白身と黄身で説明する例え)431年のエペソ公会議で異端とされる(*ちなみに近年の研究でネストリウス自身は恐らくこの立場ではなかったと考えられるようになっています)

しかし、例えばニカイア信条を見ても、いざ贖罪論に関して、記されているのは
「ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ」ということと、「罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し」(ニカイア信条より)という二文のみです。これは罪の赦しを信じるという信仰告白(what)ではあっても、Howについては述べていません。そして事実教会の歴史上、様々な十字架の贖罪理解が存在してきました。そして、それらの異なる贖罪論理解は三位一体論のように「異端」として排除されることはほとんどありませんでした。

3・様々な贖罪モデルを検証する

MDR requirements for PMCF investigations

 現代のプロテスタント福音派において圧倒的に多数派なのは、イエス・キリストが私たちの罪のために、神の罪の裁きに対する身代わりとして死なれたという解釈です。「刑罰代償」(Penal Substitution)のモデルです。刑罰代償という言葉を知らなかったとしても、恐らくほとんどの人が当たり前のこととして十字架の意味をそのように理解しています。しかし、現代神学において最も批判され、聖書学者からも神学者からも集中砲火を浴びているのがこの刑罰代償モデルでもあります。また、刑罰代償モデルに歴史的に存在してきた様々なモデルが近年見直されてきています。(東方神学の贖罪論やChristus Victorなど)私たちが「当たり前」に聖書の教えとして信じてきたことが神学の世界においては当たり前でなくなってきています。もちろん批判されていることや少数派であること=間違いではありません。ですが、従来の刑罰代償モデルの立場だとしても、何が問題視され、どのような議論がなされているかを知っていうことは大切です。(新しい解釈に突然触れたり、今までの十字架理解が「間違っていた」と突然聞いて混乱してしまうことが無いように)

しかし当然様々なモデルが存在するからと言って「みんな違ってみんな良い」わけではありません。良いモデル・悪いモデルは存在します。
その「良い」「悪い」の基準は何でしょうか?今回様々なモデルを考える上でその基準を「整合性(聖書的&論理的)」+「完全性」とします。

贖罪論を検証する上での基準

・聖書的整合性:聖書全体の記述と整合性があるか(聖書のみ(sola Scriptura)の原則に立つ前提で)
・論理的整合性:論理的一貫性はあるか、矛盾していないか
・完全性:十字架の贖罪の意味を全て(部分的にではなく)説明出来ているか

この軸から様々な贖罪モデルについて、現代神学で挙げられている課題と共に紹介していきたいと思います。

今回取り扱うモデル

1・刑罰代償モデル (Penal Substitution):最も主流、かつ代償的暴力の問題などから近年最も批判されているモデル
2・賠償説&勝利者イエスモデル (Christus Victor):刑罰代償説以前のモデルと現代版に改良したアウレンの勝利者イエスモデル。近年非常にポピュラーになりつつあるモデル。
3・東方神学の贖罪モデル (Theosis model):エイレナイウスなど。西方教会とは異なる「神化」的アプローチ。近年西方教会(プロテスタント・カトリック)でも見直されつつある。
4・代理苦説 or 非刑罰的代償説 (vicarious penance or non-penal substitution):近年特に哲学的神学者から注目を浴びつつあるアクィナスの贖罪論を土台にした刑罰を伴わない代償説。
5・キリストとの一体化モデル (union with Christ):パウロが強調したキリストとの一体化を中心に贖罪を再構築するモデル。オランダ改革派などカルバンの贖罪理解を復興する流れから。

特に4と5については初耳!と言う人も多いのではないかと思いますが、現代の組織神学の分野においては最も活発に議論されているモデルの2つです。
早速次回は最も馴染みがあり、近年批判に晒されている「刑罰代償モデル」からはじめたいと思います!

*その他にもアベラードやシュラエルマッハーの「道徳モデル」があります。イエス・キリストの十字架の犠牲は人類の模範だったとする、恐らく刑罰代償説の次に歴史的には主流となったモデルです (得に旧リベラル陣営において)。しかし厳密には「模範」であって、贖罪(十字架が直接私たちの罪に影響を与えたわけではない)ではないので割愛します。またジョナサン・エドワーズの弟子ベラミたちから始まった「政治説」Governmental viewなど少数ではありつつも興味深いモデルも存在します。

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