要約版:宗教改革の誤りを正す?N.T.ライトの義認論に対する改革派的調停案(後半)

*クリスチャン新聞11月22日から12月20日に渡って掲載させていただいた連載「宗教改革の誤りを正す?N.T.ライトの義認論に対する改革派的調停案」の記事をいのちのことば社の許可を得て掲載しています。

(第三回目:12月6日掲載分)

前回は、カルバンの「キリストとの結合」の理解とライトの義認論には共通点があり、「キリストとの結合」のテーマが新旧の義認論が出会う土台となるというヴァンフーザーの提案を紹介しました。

義認とは?

「キリストとの結合」と「義認」との繋がりを考察するために、まず義認とはどのような行為なのか整理する必要があります。ヴァンフーザーは、義認とは言葉による行為(スピーチ・アクト[1])であり、パイパーが指摘するように単に現状を「説明」するのではなく罪赦された身分を「創造」する行為であるとします。[2](例:結婚式における「二人は夫婦である」との宣言等)しかし、ライトも同様に義認とは「無罪宣言がなされた被告人の身分を創造する」ことであると述べています。[3]では従来ウェストミンスター小教理問答等において告白されてきた、キリストの義の転嫁を通して「罪赦される」ことが義認であるという理解[4]と、ライトの「被告人の身分を創造する」という理解は何が異なるのでしょうか。それは「義と認める」舞台となる法廷が刑事裁判なのか民事裁判なのかという違いに例えられます。神が全人類を有罪と定める刑事裁判(従来の視点)において義と認められる(無罪とされる)ことなのか、それとも誰が神の共同体のメンバーなのかを決める民事裁判(NPPの視点)において義と認められる(共同体の一員と認められる)ことなのかという違いです。この二つの法廷のイメージは、救いの垂直的側面(神―個人)と水平的側面(共同体)を表しており、本来相反するものではありません。救われた者は無罪とされ、契約共同体の一員とされるからです。しかし見解の相違は主にそこに至るプロセスにあります。ライトは特に、神の義とは人に譲渡できるような性質のものでは無いことから、キリストの義が罪人に「転嫁」されるという考えは、非聖書な概念の押し付けであると考えます。

キリストとの結合:「組み込まれた義」

以上、問題を整理した上で「キリストとの結合」の主題に戻ります。ヴァンフーザーはライトの問題意識に理解を示し、転嫁(imputation)よりも「組み込まれた義」(incorporated righteousness)という表現を用いることを提案します。キリストの義が「与えられる」というより、キリストの義に「組み込まれる」イメージです。信仰者はキリストと一つになることを通して、彼の義(無罪性、契約への忠実さ[5])に預かることができるからです。このように「キリストとの結合」と「義認」を同時に考えることで、ライトが義認と関連づける法的、契約的、終末論的側面と従来の視点が共存しうる可能性が見えてきます。義認とは神が「あなたはキリストのうちにある人間である」と宣言することなのです。

パウロが、信仰者はキリストのうちにある(In Christ)存在であると述べる時(ローマ8:1等)、信仰者は義の中にあり(In the right)、罪赦された存在であるのと同時に契約のうちにある(In the covenant)存在でもあるのです。信仰者の身分を表すこの3つの概念(キリストのうちにある存在、罪赦された存在、共同体の中にいる存在)のどれが論理的に先行するのかということに関しては議論が存在します。(それが新旧の義認論の違いでもあります)ヴァンフーザーはキリスト抜きにキリストの体である共同体に加えられることも罪赦されることもあり得ないことから、「キリストのうちにある(In Christ)」こと、つまり「キリストとの結合」が義認において論理的に先行すると提案します。[6]そして「罪赦されること」と「共同体の一員とみなされること」のどちらが先行するのかという新旧の視点の違いに対し、両者は「キリストとの結合」によって起こる二つの側面であると述べるのです。

(第4回目:12月20・27日合併号掲載分)

前回は、従来の「義の転嫁」という表現に対し、義認を「キリストとの結合」とセットで捉える「組み込まれた義」(キリストとひとつになることでキリストの義にあずかる)という表現の方がより聖書の記述に即しており、かつ従来の義認論(無罪宣言)とライトの義認論(共同体のメンバーである宣言)の双方の強調点を含む説明が出来るというヴァンフーザーの提案を紹介しました。

3・義認と聖化の関係

義認論を巡るもう一つの重要な論点は義認と聖化の関係です。従来の救いの順序においてはローマ8:30などに基づき、義認が聖化に先行すると考えられ、両者は区別されていました。しかしライトは最終的な義認とは「行い」(聖化の歩み)に基づくものであり、現在の信仰者の義認は未来の義認を予期していると述べます。[1]ライトは現代の福音派に見られる「信仰告白さえすればその後の歩みに関係なく天国に行ける」というような考えに警鐘を鳴らすのです。しかしパイパーは、義認を現在と未来に分ける考え方は現在の義認を不確定なものとし、律法主義的な生き方を生み出すと警告します。[2]ヴァンフーザーは、ここでもキリストとの結合のモチーフは有益であるとし、カルバンを引用します。「あなたはキリストのうちに義を得たいと願いますか?それならまずキリストを得る必要があります。しかしあなたは彼の聖化に加わること無くして彼を得ることはできません。なぜならキリストは分断されることはないからです。」[3] カルバンによれば義認も聖化もキリストとの結合から派生するのです。ここでカルバンはライトが現代の福音派に見ている危険性(義認を天国への切符として捉え、聖化の歩みがおろそかになってしまうこと)を予期し、予防線を張っています。確かに義認は聖化の条件ではありますが、両者は切り分けられるものではありません。ヴァンフーザーは、ライトの「現在の義認は未来の義認を予期している」という表現は(律法主義を助長するというより)カルバンと同様に義認と聖化の切り離せない関係性を表現しているのではないかと述べます。

4・子とされること(adoption)

改革派とライトの義認論を調停する上での最後のピースとして、ヴァンフーザーは「子とされること」(adoption)を挙げます。パウロは「キリストとの結合」を説明する際に「子とされる」ことのイメージを用いました。(例:エペソ1:4)神の子とされるということは、家族の一員(共同体のメンバー)であることと同時に法的な身分をも示す豊かな概念です。「信仰によってあなたがキリストに接ぎ木された時、あなたは神の子とされ、天の世継ぎとされ、彼の義に与るのです。」[4] とカルバンが述べている通りです。子とされることは、義認に家族としての身分を加え、キリストとの結合に法的側面を加えます。子とする御霊(ローマ8:14)によって、信仰者にはキリストの「神の子」としての身分が「転嫁」されたと表現することも出来るかもしれません。ヴァンフーザーは、改革派神学の中であまり扱われてこなかった[5]「子とされること」の主題こそ、パウロの思考におけるライトが共同体のメンバーシップと述べることと、改革派がキリストの義の転嫁と述べることをつなぎ合わせる鍵となると述べます。「子とする」と言う概念は、現在と未来、また法廷的と家族的概念の橋渡しをする「キリストのうちにある」ことが何を意味するのかを表すのです。

まとめ

義認、キリストとの結合、子とされること、という三つの概念をつなぎ合わせることにより、ヴァンフーザーは従来の義認論を否定せずにライト神学の良い点(共同体、契約、救済史の強調など)を表現する方法を模索しました。全否定でも全肯定でもなく、対話を試みる姿勢は建設的神学対話の一つのモデルとなっています。[6]


[1] N.T. Wright, Paul in Fresh Perspective, p. 57 ローマ2:13などから最後の審判は行いに基づいてなされると解釈し、最後の審判=未来の義認として捉えます。

[2] John Piper, Future of Justification, 103-116.

[3]カルバン、キリスト教綱、要 3.16.1

[4]カルバン、キリスト教綱要、 3.15.6

[5]齋藤五十三 「宗教改革期信条における「神の子とする」教理」、キリストと世界29、69-98参照

[6]講演の全文、およびライトの応答の私訳 https://chosen-sojourners.com/2020/10/27/vanhoozer-wright/


[1] Anthony Thiselton, The First Epistle to the Corinthians, 455.等参照

[2] Piper, Future of Justification, 42.

[3] Wright, Justification, 69.

[4] ウェストミンスター小教理問答 問33

[5] カルバンもオシアンダーへの反論の中で、義認とは神の性質に与るというわけではなく、キリストの救済的働きの恩恵を受けることであると述べている。

[6]近年Richard B. Gaffin Jr.などの研究によってカルバンも同様の見解であったことが指摘されている。

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