ヴァンフーザー 宗教改革の誤りを正す?ライトの義認論への改革派的調停案

ライトの義認論に対する改革派調停案

「信仰義認」とは、信仰によって、信じる者にキリストの義が与えられること(転嫁)として伝統的に考えられてきました。しかし近年、N.T.ライトを始めとするNPP(パウロ研究の新しい視点)の立場に立つ学者達は、従来の考えは宗教改革者達によるパウロ理解の誤解だったと主張しました。中でもライトは福音派の聖書学者であったためー彼は自由主義神学に対してイエスの復活の史実性を学問的に論じましたーアメリカでは、ライト派VS改革派という福音派内での論争が巻き起こりました。先日邦訳されたジョン・パイパーの「義認の未来」はまさにその論争の最中に記されたものです。 議論が過熱する最中、建設的な神学対話を呼びかける動きが起こります。その発起人の一人が保守的改革派の土壌であるウェストミンスター神学校出身で、現在はトリニティ神学校で組織神学の教授を勤めるケヴィン・ヴァンフーザーです。マクグラスが「この時代における最も重要な声の一人」と評価するほど、教派を超えてその著作が読まれている神学者でもあります。個人的にもトリニティでお世話になっている方です。ヴァンフーザー先生はパイパーとは『空想的合理主義者―CSルイスの著作における神・命・想像力』を共著し、ライトとは『神学的解釈辞典』を共に編集しています。改革派福音主義組織神学者としてジョン・パイパーと、またケンブリッジでリクール哲学を研究し、エジンバラ大学で教鞭を8年教鞭をとっていた解釈学者としてN.T.ライトと、双方とも接点を持っている貴重な声です。2010年にホウィートン大学で行われたN.T.ライトの神学を議論するフォーラムでは、『宗教改革の過ちを正す?』と題し、N.T.ライトの義認論に応答する講演を行なっています。福音派を分断しかねない議論に対して、対立構造を乗り越える調停案を提示する貴重な講演です。以下ホウィートン大学のYouTubeにて公開されている講演の動画と、私訳です。


講演の私訳

 組織神学者の私がこのような場で何をしているというのでしょうか。当然トム・ライト(訳注:NTライトのペンネーム)に敬意を表明するためです。一年半前、主催側から義認論について、例えば「使徒パウロは何を言い返すだろうか」[1]のようなタイトルで講演してくれないかとお願いされた時、私は喜んで引き受けました。私は議論には干渉しておらず、ライトを批判するジョン・パイパーの本の存在すら知りませんでした。私が義認について知っていると思っていた事柄、それはルターが語ったことです。それはすなわち義認とは(1)義に「作り変えられる」のではなく義と「認められる」ことであり、(2)その土台はキリストの義の転嫁であり、(3)それは教会が立つか倒れるかがかかっている重要な教理である、と。ですが、私はトムの、宗教改革は聖書以上に伝統に忠誠を誓っているという批判によって、突如カントのように教理的な睡眠状態から目覚めさせられたのです。私は今、聖書を元に歴史的・神学的結論に至るまでの方法論を再吟味する必要性、新しい「純粋聖書的理性批判」[2]が必要とされていることを理解しました。

 トムは組織神学者にとって素晴らしい対話相手です。彼は聖書テキストに対して歴史的問いだけではなく、文学的、神学的問いを投げかけます。彼は著者の世界観、大きな契約概念、そして神について関心を持っています。ですから私は神学的解釈辞典[3]の共同編集者として彼を喜んで迎え入れたのです。だからこそ、私は去年の秋ゴードン・コーンウェル神学校で行われたRenewing Evangelical Mission Conference (訳注:福音派の宣教刷新大会)にて投げかけられた問いに戸惑いました。私は聖書神学と組織神学を統合するというテーマで分科会を導いていました。その時デニス・ホリジャー[4]が「部屋の中の象」(訳注:アメリカのタブーの比喩)、つまりトム・ライトの義認に対するアプローチについて私に質問したのです。当時私はまだ教理的睡眠状態に陥っており、こう答えることしかできませんでした。「恐らくその象は別の部屋にいると思います。」しかし皆さん、この象はまさに今この部屋に来ています。トム・ライト本人のことではなく、聖書神学が伝統的神学的見解を覆すという問題のことです。その象は福音派のテントを踏み荒らし、教理という机をひっくり返して回っているように見えます。

 私は組織神学者なので第二神殿期におけるユダヤ教に関しての意見を述べる立場にはありません。ある新約学者が私にこのように事前に忠告してくれました。「君は正しいかもしれないが(訳注:組織神学者として聖書学者に対して)説得力を持つことはできないだろう。」私は聖書神学と教理を隔てるベルリンの壁を、人々が安全に渡れるよう手助けをしている通学路の警備員のような気分でいます。今から私が試みるのは「新しい」視点(訳注:ライト含めたNPP)と「古い」(訳注:伝統的な)プロテスタント達との平和的対話を促すことです。

問題の所存:〜プロテスタント的パウロの代弁者か、あるいは宗教改革の棺の運送係か[5]

 この義認論の論争にはプロテスタントの宗教改革の伝統がかかっていると言っても過言ではないでしょう。つまりはこういうことです:宗教改革を取り戻す(訳注:recover)とは、私たちが宗教改革を取り戻す(訳注:Recoverする)べきなのか、それともそこから立ち直る(訳注:recoverする)べきものなのか。意見は対立しているようです。[6]ジョン・ミルバンクによると、「プロテスタント神学の決定版はもはや絶滅」[7]し、「宗教改革者に立ち返ると言うオプションは存在しない」[8]ようです。彼によるとカルヴァンはより意義深い非伝達性存在論的事柄(non-transactional ontological matters)よりも外的現実(例:人間に及ぶことが出来ないキリストの義)を強調してしまったのです。[9]ミルバンクは代わりに「異なるプロテスタンティズム」、ラディカルな正統的なプロテスタンティズムを提唱します。[10]

 このような「神学者達の遊び場」としても知られるような白熱した議論の渦中に、トムは1世紀のパレスチナの空気を送り込みます。彼の新しい著書『義認(Justification)』[11]の中で彼はこう結論づけています。「では私たちは宗教改革の神学を廃棄するのでしょうか。いいえ、その逆に確立するのです。[12]」しかし皆が納得しているわけでありません。私が見るところトムのパウロに関する著作は三つの重要な課題を提示しています。

課題1・パウロの声を取り戻す

 一つ目は「誰が本当のパウロの代弁者なのか」と言う問いです。私たちは多かれ少なかれパウロが何を語ったかについては知っています。私たちは彼が何を「意味していたのか」を知りたいのです。彼の第二神殿ユダヤ教に対する考えはどうだったのでしょうか。彼はキリスト教を発明したのでしょうか。私たちの周囲には、馬車に飛び乗り、私たちの理解を助けようと、うずうずしているピリポ達が大勢いるのです。[13]

 神学者パウロ:私達は皆、宗教改革者が提示したパウロ像ついては知っています。彼は少し身長が低いと言う以外ルターにそっくりなのです。

 哲学者パウロ:より馴染みが少ないのは近代の西洋哲学者としてのパウロです。(訳注:フランスの哲学者)アラン・バディウは『聖パウロ―普遍主義の基礎』[14]の中で、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ3:28)」からパウロを劇的に再解釈し、この世のいかなる秩序にも迎合せず普遍主義を体現する革命的ポスト・マルクス主義の主体へと変えてしまいます。

 歴史学者パウロ:ランキュース大学で2005年に行われた学会は、バディウと幾人かの新約学者を対談させました。新約学者はパウラ・フレデリックセン、デール・マーティン、そしてNPPの先駆者であるエド・サンダースといった顔ぶれでした。フレデリックセンは、神学的な伝統とは、不注意にもパウロを自らの代弁者としてしまった宗教改革者達によって新約聖書が誤って読まれてきた結果であると述べました。マーティンは、哲学者によるパウロの普遍主義的な指向性の指摘は正しかったものの、パウロにとってそれはすでに存在していたイスラエルに接ぎ木することだったということを見落としていると指摘しました。しかし、重要な論点を指摘したのはサンダースだったのです。「解釈の問題の主要な部分は文脈です。どのような見解、出来事、社会構造によってXを読むのかという問いです。歴史家はまずXの読み方についての基本的方針を定めます。Xの当時の文脈の中で読むのか、それともある一定の期間を経てXがどのように理解されるに至ったかを調べるのかということです。しかし・・・人々は同時に複数の文脈で生きているのです。[15]

 釈義家パウロ:ライト自らが述べているように、彼の目的はパウロ自身の思考に従うことです。彼の世界観分析アプローチがどのように(ユダヤ教的、ヘレニズム的、ローマ的文脈から借り、対峙し、改善する中で発展した)パウロのキリスト中心的思考を描写するのか期待しています。当然ライト自身もある特定の文脈―21世紀のダラム―から執筆しています。彼自身も自らの複雑な問題意識と興味を持っているのです。私たちは自らの置かれている状況に絶望する必要はありませんが、悲観するべき現状は確かに存在しています。例えば、以下はサンダーズが自らの歴史家としての働きについて述べている文章です。「多くの人は『パウロとパレスチナユダヤ教』(訳注:サンダースの著書)の中に、パウロはパレスチナ地方のユダヤ教文献の中でのみ論じられなければならないという主張があると思い込んでいます。しかしそのような主張は存在しないのです。私はただパウロを自らが10年かけて研究してきた資料と比較したにすぎません。そして私は他のことを研究する10年間がまだ多く残されているだろうと思っていました。しかし時は経ち、私にそのような10年間はもはや残っていないのです。」[16]

課題2・聖書のみを実践する

 ライトの釈義は「聖書のみ」の原理にも疑問を投げかけます。福音派キリスト教は、プロテスタントのスローガンの一つである「改革し続ける」ことを、少なくとも論理的な概念としては喜んで告白することでしょう。しかし実際には、彼らは時に町の開発計画に賛成しつつも、自らが新しい居住環境に慣れたとたんに、それ以上の開発を止めるように呼びかける人々のようです。それは教理的進展に関しても同様です。

聖書と伝統

 スコット・マックナイトはライトの著書『義認』への最も印象的な賛辞を送っています。「ライトはアメリカの最新の宗教的熱心党―新改革派[17]―に対して聖書と歴史的文脈に連れ戻すことで勝利(out-reform)しています。ライトは、新改革派が聖書そのものよりも伝統にコミットしているということを示したのです。」マックナイトが想定している人々が新改革派なのか古い改革派なのか分かりませんが、挑戦は同じです。ライトはこのように述べています。「パウロだけではなく、聖書全体の読み方における私の形式原理は・・・人間のいかなる伝統よりも聖書そのものに対する完全なコミットすることなのです。」[18]

 彼の著作が私たちの注目を受けるのに値する理由は、まさにこの目的(訳注:聖書そのものへのコミットメント)を追求するライトの聡明さと努力にあります。この点において、私はパイパーの、聖書神学の概念が私たちの釈義をコントロールし歪める可能性があるという注意を興味深く感じました。ライトはその危険性に気づいています。「ここにおいても、その他の箇所においても私の主な関心事は、私達が聖書以外の概念を聖書に押し付けてしまうことが無いようにすることです。」[19]まさに、彼がパウロの思考に追従する試みの中で、彼は聖書神学を組織神学よりも高い位置に位置付けているのです。「パウロが用いている根本的にユダヤ教的な思考の文脈を我々が理解するならば、多くの非ユダヤ的組織神学を乗り越えることが可能である。」[20]

  「聖書的」であるとは何を意味するのでしょうか?ライトは「聖パウロと共に多かれ少なかれ対話相手として」30年以上共に過ごしてきました。[21] 私自身も「聖書的であるとはどういうことなのか?」という問いと同じくらいの年月を共に過ごしてきました。ライトはこの重要な問いに様々な場面で答えています。特に顕著なのは『新約聖書と神の民』の素晴らしい冒頭の100ページにおいて、また『義認』の第二章「取り組む上での原理」においてです。一部の釈義家(訳注:聖書学者)は、特定の聖書箇所理解においてより(訳注:組織神学者に対して)優れていることから「あなたより新約聖書に精通している」と主張します。しかしライトは解釈学的な王道を行き、個々のパウロ文章を「大きな一つの思考の流れの中で捉え、その中で個々の重要な用語の意味を発見していく」[22]のです。しかし釈義家の中にはライトの手によって、パウロの思考の流れ(train of thought)がまるで過度な荷物を背負った貨物列車になってしまっていると批判する者もいます。その荷物とは過度な物語的負荷:つまりパウロがはっきりと明言していない「全体像」です。[23] 例えばパウロは、「(ライトが指摘するように)神はアダムの問題を解決するためにアブラハムを召した。」[24]と実際にどこかで本当に述べていのかどうかという問いなどです。

  「聖書的」であるというのは釈義的な細部にこだわる事なのか、それとも全体像を見る事なのでしょうか?答えは「はい」です。[25] 私たちの多くは、テキストを一つ一つの言葉、一つ一つの節、一つ一つの章をこつこつ注視していくのに対して、ライトは物語という翼に乗り、ガラテヤ書から創世記へと行き来し、彼のファンを喜ばせると同時に彼の批判者達の間で解釈学的な乗り物酔いを引き起こすのです。私自身の感想としては、これは私が彼の著作の中で最も尊敬している部分です。彼はテキストの、そして新旧約の点を繋げ、神学的解釈という球場で、比喩的解釈というステロイドに依存する事なくホームランを放ち続けているからです。しかし、私は彼が、時にジェームズ・バーが「非正統的全体移動」(訳注:特定の文脈における意味以上の意味を言葉に読み込んでしまう誤り)[26]と呼ぶような解釈学的過ちを犯してしまってはいないかと思うのです。

  ライトは「1世紀における言葉の用法が脇に置かれ、全く異なる世紀の論点や概念がその座を置き換えてしまっている。」[27]と正しく指摘しています。これは手厳しい教訓です。しかし、過去は変わらないとしても、私たちの過去に対する理解は変化します。第二神殿期ユダヤ教を理解するためのパラダイムが再び変化するのも時間の問題でしょう。私たちは宗教改革者の目のちりを取り除けようとする前に、自らの21世紀の文化的な梁(ルカ6:42)を取り除くことを忘れないようにしたいと願います。歴史への道は、様々な(訳注:当時の視点を請け負っているfiduciaryな)フレームワークが存在しているのです。

  神学とは「知識を求める信仰(faith seeking understanding)」です。それは聖書の著者が用いた言葉を発見することだけではなく、それが何を意味するのかについて詳細にコンセプト化(訳注:組織神学)することです。そして私たちが解釈史を学ぶことによって気付かされるのは、多くの場合そのコンセプト化はテキストから離れるのではなく、むしろよりテキストに近づいていく動きだということです。途方もない速さでパラダイムが移りゆくこの世界の中で、覚えておきたい大切な点は、聖書がそれ自体において基準となる文脈であるということです。そうです、文脈、文脈、文脈。聖書全体(訳注:正典的)の文脈を含めて重要なのです。そのような意味において、B.S.チャイルズの『パウロを読むための教会向けガイド:パウロ書簡の正典的形成』の中で、特に「歴史的・正典的パウロ理解」の章で述べられていたことが、ライトのパウロにまつわる著作で言及されていないことを不思議に感じました。チャイルズはこのように述べています。「1世紀の歴史的パウロは、パウロの証言を受け取り、正典的パウロとして形成した継承者達によって[28]届けられたのです。・・・この融合・・・は特に使徒の働きにおいてはっきりと表れています。」[29] 宗教改革者達が教会の伝統という轟音の中で必死に聞きとろうとしたのは、まさにこの正典的な(訳注:聖書全体の文脈から見る)パウロの声だったのです。

まとめると、ライトは、宗教改革者達が「聖書のみ」を提唱したことにおいて誤っているとは考えません。むしろ、現代の義認論に関する議論を難しくしているのは、彼が義認論の伝統的な視点を聖書から疑問視していることです。ライトは宗教改革の形式原理(formal principle:聖書の権威)を用いて内容原理(material principle:信仰義認)を疑問視しているのです。残された疑問は、それによって彼がプロテスタンティズム自体の生命線を傷つけてしまったのか、それとも古びた伝統主義の頭を打ち砕いたのか(それとも両方?)という問いです。[30]

課題3・福音の権威を保持する

三つ目の問いである福音の意味に差し掛かる時、私たちは福音派の聖域に踏み込みます。感情は高まります。ライト神学の問題点として大方考えられているのは彼が主張している事柄ではなく彼が否定している事柄にあるからです。彼の主張は重要で心踊るものです。パウロの文脈における福音とは、ヤハウェが再びイスラエルを抑圧する諸力から解放するために再び働かれたことであり、契約の頂点を告げる良い知らせであり、その良い知らせとはイエスキリスト、イスラエルのメシアが、十字架上で時代の悪の諸力に打ち勝ち、復活によって新しい時代を引き起こし、この世界の唯一の主であり王であるという宣言なのです。[31] つまりパウロの福音とは神の契約への忠実さ(訳注:Covenant faithfulness)を受肉する存在としての「イエスキリストの到来の知らせ」なのです。[32]

 イエスの人となりと働きを契約の概念の中で理解しようとするライトの強調点は歓迎されるべきものでしょう。彼の救いの共同体的側面を取り戻そうとする試みも同様です。特に北米アメリカの多くの人々が、福音を死んだ時に天国に行くための手段に過ぎないものとして捉えてしまっていることへの警鐘を鳴らしているのはライトだけではありません。例えば、デイビッド・ベントレー・ハートも同様に以下のように述べています。「多くのクリスチャンは、公式であれ非公式であれ、歴史の様々な点において救いをこのように習慣的に捉えていました:法的な免除と、それに伴う旧友に出会える大草原の楽園へのチケットとしてです。」[33]

しかし、ライトが改革派神学の中で議論を起こしているのはむしろ彼が否定している事柄です。例えばライトの「福音とはパウロにとってどのようにして(訳注:how)個人が非歴史的意味で救われるかということではなかったのです。」といったような言及です。[34] マイケル・ホートン[35]はNTライトの「イエスが王であるという物語的宣言」[36]を、素晴らしい「真実の半分」(訳注:half-truth)だと述べます。「たとえ福音が「どのように人が救われるか」について述べていなかったとしても、少なくとも「どのように神が人を救ったか」というニュースであるべきである。」[37] ホートンが聞きたいと願っているのは、神がふさわしくない者を義と認められたというメッセージです。そのメッセージが無ければ、「イエスが王であるというニュースが、恐れや絶望を呼び起すものになってしまっても仕方がない」[38] のです。(訳注:マイケル・バードもこの点に関して「イエスが王であるということを宣言することは、イエスがいかに(私たちの罪のために自らを捧げ、罪の赦しのために復活されたことによって)その王位を示されたのかという説明無くしては、福音の不十分な描写となってしまうだろう。」と述べています。[39]

  パイパーも同様の懸念を抱いており、はっきりそれを述べています。「(ライトの)福音の描写は・・・激しく変形されており、聖書的に忠実なのかどうかを判断するのが難しくなっている。」[40] これはかなり厳しい表現です。パイパーのこの発言の背後にあるのは、ライトが私たちの最終的な義認の土台をキリストではなく、私たちの地上での生き方に置き換えてしまっているのではないかという懸念です。「私の見立てによると、彼が記したことは、キリストが王であるということが罪人にとっていかに良いニュースとなるのかをはっきり語らない、または罪の罪責に圧倒されている人が神の前でいかに義とされるかを語らない説教を生み出してしまうのではないかと思うのです。」[41]

  ホートンとパイパーが求めているのは、いかに個人が神と和解されるのかという説明です。また彼らは、正典的パウロは個人の救いについて述べることを恐れていなかったと指摘します。牢屋の看守が彼に「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」(使徒16:30)と質問した時、彼は「それは間違った質問です」とは答えなかったのです。むしろその反対に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と答えています。(31節)確かに該当の文脈において牢屋の看守は囚人を逃したことによる一時的な刑罰、あるいは処刑を恐れていた可能性を示していると読めるかもしれません。しかし、ルカがこの出来事を描写する方法はその解釈の扉を閉ざします。なぜなら、看守がこの質問を聞いている時点で彼は囚人達が逃げていなかったということを知っていたからです。つまり、看守達がもう一度自殺を考えることは物語の流れからして考えられないことです。同様にパウロの応答と、その後に続く看守と看守の家族の洗礼は、永遠の救いが視点にあることを表しています。

 最後に、もしチャイルズが正しく、そしてパウロの牧会書簡がパウロ書簡全体の受け取られ方に影響を与えているのだとしたら、私たちは1テモテ1:15にある信仰告白のような文章を無視することはできないでしょう。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

宗教改革の間違いを正す(ライト神学の内容)

ここまでの道のり

 私はここでライトの全ての考えについて述べることはできません。私の焦点は特に、彼の最近の著作が宗教改革の形式原理(聖書のみ)と内容原理(信仰義認)にいかに関係しているかという点に限定されます。再びになりますが、ライト神学が議論を巻き起こしている大きな理由は宗教改革の一つの原理(聖書のみ)をもう一つの原理(信仰義認)と対峙させていることです。私たちのうちのリップ・ヴァン・ウィンクル[42]が、パウロ神学の新視点を寝過ごしていたことによって見落としてしまったのは釈義的な大革命であり、トーマス・クンが言うところの解釈的パラダイム・シフトなのです。[43]

釈義的革命の構造

ライトの、宗教改革を正す(訳注:Wrighting the wrong)ことの目的は宗教改革者を否定することではなく、宗教改革者が述べたことを再構築することです。ライトは特別に注意を払いつつ、「宗教改革の良き伝統が必死に強調しようとしたことは一切失われていない」[44]と述べています。確かにそうなのかもしれませんが、改革派の視点からすると、パウロ神学の星座はバラバラになり、ライトの神学的夜空に教理の星を正しく見いだすことがもはや出来なくなってしまっているのです。

例えばパウロの「神の義」に関する概念について考えてみましょう。これは通常神が正義を行う意思として理解され、悪の被害にあった人々、特に彼の契約の民を守ることとして理解されます。神の義とは、神の正しく裁くという意思であり、彼自身の義の性質に物事を適応させることです。[45] しかしライトやその他の人々にとって、神の義とは神の契約への忠実さを表す専門用語なのです。神の義の行いは、「イスラエルを通して・・・・世界を正すという神の一つの目的」の一つの側面です。[46] イエスキリストを通して示された神の義とは、神がアブラハムの子孫を通して全世界を祝福するという約束の成就なのです。

ライトはアダムの子孫の歴史を取り扱う上で、イスラエルの契約を、聖書全体を解釈する上での主要な解釈学的視点―大きな筋書き(main plot)とも呼べるでしょう―としています。これがライトのコペルニクス的な革命的一歩なのです。つまり創世記12章における神のアブラハムへの約束とそこから派生する物語(narrative)を様々なパウロ書簡が軌道に回る中心の太陽として位置付けるのです。しかし彼の改革派の対話相手は物事を別の見方で捉えます。「全ての世界がイスラエルに内包されるのではなく、イスラエルさえもアダムに含まれる。」[47]のだと。

ライトと彼の批判者達は互いをフェアに位置付け、相手のことを理解することが出来ないフラストレーションを相互に抱えています。彼の改革派の批判者達はライト語が理解できるようになるためのロゼッタ・ストーンコースを必要としています。同時に、(訳注:聖書本文における)語彙的根拠を理解してもらえないことに頭をかいているのはライトだけではありません。ヘンリー・ブロシャーは、神の義を報復的正義(訳注:契約への忠実さではなく正義の執行としての伝統的な正義の捉え方)として示す決定的な根拠を列挙し、その後このように述べています。「聖書本文の根拠はあまりにも明白で、あまりにも頑固であり、主要な神学者による(訳注:これらの箇所の)軽視は、とてつもない霊的な、もしくは学問的なプレッシャーによってしか説明が出来ない。」[48] いくつか具体例を挙げるとすれば、ザカリアとエリザベスは「二人とも神の前に正しい人(訳注:原語だと義を意味するdikaios)で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。」(ルカ1:6)と言う記述などです。もちろん解釈学的なパラダイムを覆すためには、いくつかの反例を示すデータだけでは足りません。しかし、私たちはそのような釈義上の例外ともとれるような箇所を無視することはできません。

パラダイム変換:「教会論が新しい救済論である」

ライトの釈義的革命は、パウロが義認について何を語っていたかという私たちの考えを再構築するものです。中世のカトリックにとって義認とは、神が「義とする」ことであり、ルターにとっては神が「義と宣言すること」であり、ライトにとっては「契約のメンバーとして宣言する」ということなのです。これは「古いパウロ理解」の解釈学的理解に対しての彼の主要な見解の相違でもあります。「パウロが信仰義認について語る時、彼は同時にユダヤ人や異邦人が一つの神の民として一つとされることを述べているのです。」[49]

(訳注:ライトによれば)信仰義認とは「ある人が真の神の民の共同体にどのようにして加わるか、ということではなく、どのようにして誰がその共同体に加わっているのかを判断するのかということなのである。」[50] 神の民のメンバーであるという、現在と同時に未来における神の宣告がなされ、それによって罪赦されるのです。救済論との関係性が完全に失われるわけではありません。なぜなら契約の大部分は罪の問題を扱うために存在しているからです。アブラハムの家族に属するということは「『罪の赦し』に反することではなく、むしろ罪の赦しの正統かつ聖書的な文脈なのです。」[51] すなわちライトにとって契約のメンバーシップが救いの問題に先行し、かつそれを形成するのです。(訳注:改革派神学の救いの順序においては神の義認が共同体への参与に先行する)

 ライトの視点において信仰とは契約のメンバーであることの印であって、個人がキリストの義を手に入れるための手段ではないのです。ここで私たちは改革派のもう一つの争点に差し掛かります。もし信仰が私たちの入場券ではなく、すでにメンバーとなっている者が身につけるバッジなのだとしたら、どのようにしてその共同体の入場を許可されるのでしょうか。改革派のライトへの批判は彼の主張(信仰とは契約のメンバーシップを証明するバッジであるという点)に対するものと言うより、彼が否定している事柄(信仰とは救われた者達の共同体への入り口ではないという点)なのです。[52]その否定は、ライトの釈義の全てがそれによって左右される、ダグラス・ハリンクが「巨大な神学的構成(訳注:massive theological construct)」と呼ぶ概念へのコミットメントによるものです。それはすなわち、神のイスラエルとの契約という歴史的―契約的なメタ・ナラティブ(大きな物語)です。[53]ライトの解釈学的な枠組みは、共同体を含むという意味では非常に明快ですが、パウロの看守やパウロ自身などの個人の救いの経験を変形させてしまうリスクを含んでいます。「ライトの義認の枠組みは多くの聖書箇所の通常の読み方にそぐわないものである。」[54]とパイパーが述べているようにです。当然、どの枠組みにも荒削りな部分は存在するでしょう。しかし、多数の釈義的な例外(訳注:ライトの枠組みにそぐわないと言う意味)と考えられている箇所が存在することにより、私たちはまだクーンが「通常の科学」(訳注:パラダイム転換が終わった後、常識として定着した状態のこと)と呼ぶ状態には至っていないのです。改革は続いており、その結果はまだ不透明です。

前進への道?キリストとの結合と福音の要約

私はライト神学のもっとも良いものを改革派の伝統の最も良いものに取り入れる道を模索している人々(例:マイケル・バード)と同じ側に立っています。[55] 私はカルヴァン主義に完璧な信頼を置いていると言うわけではありませんが、私自身も誇るべきところがあります。もし誰かが改革派に信頼を置く理由を持っているとしたら、私にはもっとあります。1982年5月8日に卒業し、ジュネーブ人であり[56]、ウェストミンスターの民であり、改革派の中の改革派。法(law)に関しては長老派であり、熱心さに関しては教会の博士であり、律法によるに関しては非難されるべきところがあります。

偶然にもカルヴァンの救済論の「新しい視点」と呼ばれている研究は、(同様の釈義的方法論によってではないものの)パウロ神学における新しい視点(NPP)が発見したと主張するパウロ神学の側面を指し示しています。[57] 具体的には、パウロが述べる「キリストとの結合」という概念のカルヴァンの扱い方は、新旧の視点が出会うことができる土台を提供します。[58] カルヴァンの、パウロのキリストとの結合理解は、最良の組織神学が議論にどのように貢献できるかを示しています。つまり聖書外の異なる体系を聖書に押し付けるのではなく、むしろ聖書本文によって示唆されている事柄を詳しく体系化することです。同時に、それはプロテスタントの救済論と呼ばれている研究分野において、さらなる真実と光明が見えてくる可能性を私たちに示すものです。[59]

私たちは救われるために「どこ」にいる必要があるのか。

“神の義は・・・彼のうちに”(2コリント5:21)

 ここからは宗教改革の内容原理である信仰義認について考察します。私は特に二つの問いを投げかけたいと思います。(1)義認とはどのような性質の宣言なのか。そして(2)それがキリストとの結合とどのように関わっているのか、です。これらの問いに答えるためには、私たちは釈義から存在論に、つまりパウロが語っている事柄のリアリティと論理を体系化する必要があります。それこそが組織神学の役割なのです。それは一歩ずつ(訳注:聖書の記述を)体系化していくことにより教会の理解を助けることです。

義認の宣言としての側面:義を伝達するということ

まず義認そのものについて始めたいと思います。神が誰かを義と宣言するとき、何が起きているのでしょうか。これは既に散々議論されてきている土壌ですが、私は一つの観点にのみ注目したいと思います。神の宣言、スピーチ・アクトとしての義認です。(私自身も守るべきステレオ・タイプを持っていますから[60]

どのような宣言なのか

義認とは、神が義について何かを述べていることであると言う点において見解は一致しています。義の転嫁について論じる前に、まず発語的義(locuted righteousness)(他に良い語彙がないためにこの用語を用いています)についてはっきりさせる必要があります。アンソニー・シセルトンによれば、dikaiooとは「義として認めること」であり、「発語行為(locution)としてある状態の説明(訳注:description)ではなく、宣言と判決という発語内行為的(illocutionary act)スピーチ・アクトなのです。」[61] 宣言とは私たちが言葉を用いて行う五つの基本動作のうちの一つです。宣言とは、その言葉が発せられるだけで実質的な変化をもたらすことです。「今、二人を妻と夫として宣言します」「会議の延期を宣言します」「あなたはクビです」同様に、義と宣言するということは言葉によるある種の行いなのです。

ですが義と宣言することによって、実際に神がどのような変化を起こすのかという点において意見は分かれています。片方の極には、義認とは法的なフィクションを生み出す言葉遊びに過ぎないと言う人たちがいます。この立場はスピーチ・アクトとしての宣言としての義認を単純に否定します。もう一方の極には、神が義と宣言するという行為には実質的な変化を伴う力があると述べるエーバーハルト・ユンゲルがいます。「この宣言には創造的な力があります。なぜならそれは神の言葉だからです。・・・これは神の言葉・・・すなわち存在していなかった事柄を存在させるのです(ローマ4:17)・・・この法廷的行為こそが罪人を義とするのです。」[62] 義認とは神が私たちを現在の存在と異なる存在とすることであり、私たちの経験とは異なり、終末論的に私たちを形作るのです。(例:「行い」による私たちの存在とは異なる存在として形作る)

ライトによれば、「dikaiooとは・・・宣言を示す言葉であり、出来事を起こしたり、事柄を変化させたりするのではなく、ある事柄を説明する言葉である。」[63] それは現在と未来において、誰が神の民のメンバーだったのかということについての神の終末論的定義です。[64](訳注:つまり既に神の民のメンバーとなっている者を「あなたは神の民です」と宣言するという意味で、宣言によって神の民となるわけではないと言うこと)しかし、ライトのこの視点をサイモン・ガターコールは「ミニマリスト的視点」と呼びます。なぜなら神が義を宣言するということは、既にそこに存在している事柄を認める(訳注:説明する)以上の意味があるからです。[65] パイパーも同意します。「神の義認の行為は平和を確立するのです。なぜならそれによって神はただ宣言するのではなく、私たちの新しいアイデンティティを決定づけるからです。」[66]

しかし、ライトは上記のような口調で語ることも可能です。「法廷において裁判官が誰かを義と宣言するとき・・・彼は無罪宣言がなされた被告人の身分を創造しているのです。それは宣言と言う行為によって、つまり現代の私たちが「スピーチ・アクト」と呼ぶ行為によってです。」[67] この発言をウェストミンスター小教理問答と比較してみてください。「義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちのすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受けいれてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され信仰によってだけ受けとるキリストの義のゆえです。(問33)」 それでは、神が私たちの罪を「赦す」ということと、ライトの言う「無罪宣言がなされた被告人の身分を創造する」こととは何が異なるのでしょうか。全てはそれがどのような判例なのか、それ以上に神の宣言がどのような法廷の文脈で行われていると考えるかにかかっています。

民事裁判か刑事裁判か

神は、「どちらがより神の民と言う称号を受けるにふさわしいか」というイスラエルと諸国との間の民事裁判を遂行しているのでしょうか。それとも人類全てが「神に対する罪」[68]によって告訴されている刑事裁判なのでしょうか。ローマ書の最初の数章において記されているのは全ての人は神の義の基準に足りず、神は全ての人類を罪に定めているという概念です。しかし、ライトにとって義と宣言するということは無罪放免というよりは事実認定[69]のようなものです。つまり、個人が契約共同体のしかるべき一員であると言うことの宣言です。そしてそれは個人の良い道徳的な行いによるのではなく、イエスキリストを主と告白する信仰によるのです。少なくともある改革派の批評者は―彼は神の栄光のみを求める牧師なのであえて名前は伏せておきますが[70]―ライトが物事の順序(訳注:Ordo Salutis)を逆転させてしまっていると考えます。「義認とは(訳注:共同体のメンバーであると言う)宣言そのものではなく、むしろ救いをもたらす契約共同体に入るための条件なのである。」[71]

 ライトがパウロの大きな概念として捉えている事柄を思い出してください。それはアブラハムの子孫を通して世界を救うという神の一つの目的です。アブラハムの子孫として宣言されることこそが、創世記11章の問題、つまりバベル以降バラバラになった人類の問題を解決し、また創世記12章におけるアブラハムの子孫を通して全ての国々が祝福されるという約束を想起させるのです。また、契約共同体のメンバーとして宣言されるということは、契約共同体のメンバーがキリストの死に共に与るという意味において創世記3章(訳注:堕落)の問題と神の怒りについての問題にも関わります。罪とは縦の(例:神との歴史的救済的)効果と横の(例:被造物にまつわる神学的)効果をもたらし、私たちを神から(訳注:垂直)、そしてお互いから(訳注:水平)分断するのです。「個人の神との関係と、個人の共同体における人間関係は相互排他的なカテゴリーでは無いのです。」(訳注:個人と神との関係と契約共同体の概念は相反するものではないというバードの指摘)[72] 唯一の問いは、ライトが果たしてこの二つの軸を、―ふさわしい呼び方をするのであればー正しく(Wrightly)位置付けているのだろうかということです。

 義の転嫁にはどのような意味を持つのか

私たちはライトの「より新しい視点」を改革派のフレームワークに、旧い皮袋を壊すことなく接ぎ木することが可能なのでしょうか。両者とも、より広い契約的な枠組みにおける義認の法廷的な側面を主張しようとしています。それでは、何が問題なのでしょうか。見解の相違は、宣言されたステータスとしての義の性質を巡るものです。それは民事裁判の判決なのでしょうか。それとも刑事裁判の判決なのでしょうか。その宣言は「共同体に入っている」という意味なのでしょうか、それとも「無罪」と言う意味なのでしょうか。義を宣言(locuting)することによって神は何を行なっているのでしょうか。ライトも改革派の神学者も、神がある者を義と宣言するということは、その者が「道徳的に正しい」ということを述べているのでは無いとします。ある者を義と宣言するということは、その者の「身分」に関わることであり、その人の実際の「状態」に関わることではないからです。

ライトによれば、義とされるということは被告人に義が転嫁されるということとは全く関係のないことです。彼は裁判官が自らの義を被告人に転嫁したり、分け与えたり、譲渡したりするということはナンセンスだと考えます。同様に、神がキリストの「功績の宝庫」―罪なきキリストの道徳的基準―を罪人の口座に転送することもありません。律法主義を推奨してはならないというライトの懸念は正しいものです。しかしなぜ私たちは(訳注:転嫁の対象である)キリストの従順を「契約的な忠実さ(covenant faithfulness)」ではなく「道徳」として捉えなければならないのでしょうか。むしろ義認において、神はキリストの「正しい契約との関係性」を私たちのものとしてみなしてくださると考えることは出来ないのでしょうか。カルヴァン自身もオシアンダーへの反論の中で、義と認められると言うことは、神の性質の一つに与るというわけではなく、キリストの仲介的、救済的働きの恩恵を受けることであると述べています。キリストはイスラエル(またアダム)が行うべきだったことを全うされたのです。彼は契約の罰則をその身に受け、契約の律法(神と隣人を自分と同じように愛するという律法の集約を含め)を成就されました。ですから、神が私たちを義と宣言なさるとき、神は私たちを赦し(ローマ8:1「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」)、同時に私たちに罪なきものとしての身分を与えてくださるのです。その身分は、私たちが最終的に義となる(例:聖化)時(訳注:終末において完全に義とされる時)までのいわば頭金として、御霊によって保証されているのです。

神がある人を義と認める時、いくつの事柄を行なっているのでしょうか。少なくとも4つです。義認とは「神が新しい身分、新しい契約、新しい時代の前味を伴う新しい人を作り上げる行為」[73] なのです。問題は義の転嫁もこの圧倒的な神のスピーチ・アクトの中に含まれているのかどうかという問いです。「転嫁とはある者に属しているものを他者に帰することである」[74] そのような帰属は適切なものと言えるのでしょうか。この問いは私の建設的提案の真髄に繋がります。つまり、ある者を義と宣言するということは、その者がキリストの義に組み込まれている(訳注:incorporated)ということを意味するということです。「私は今あなたをキリストにある人間として宣言します。」

「組み込む」(incorporate)という言葉は「大きな部分の一部とすること(例:キリストの体)」という意味と、「団体として構成する」という二つの意味を持っています。「組み込まれた義」という概念は、ライトが義認と関連づける法的、契約的、終末論的側面を含み、同時に改革派との共存を可能とする方法でそれらを整理するものです。[75] 「組み込まれた義」は、新旧の視点を和解に導く最善の解決策では無いかもしれません。しかし、私は今後何かしらの調和的な解決策に至ることはまだ可能なのではないかと期待しています。[76] しかし、そのためには双方がキリストとの結合という主題をより中心的に扱う必要があるでしょう。

キリストとの結合:法廷的、存在論的、または契約的概念?

カルヴァンのーそして更に重要なことにパウロのーキリストとの結合という概念は、法廷的要素と参与的要素の双方を含んでいます。これこそ「組み込まれた義」の調停案が試みていることです。パウロが私たちを「キリストのうちにある(訳注:in Christ)」と宣言する時、神は私たちを「無罪(訳注:in the right)」と宣言し、同時に「契約の一員(訳注:in the covenant)」と宣言しているのです。ではこのキリストのうちにある(in Christ)という概念の中に、その他の二つの要素が加わる余地はあるのでしょうか。もしそうであればどのように、そしてそれらはどう関係しているのでしょうか。私たちはキリストのうちにあることのゆえに無罪とされ契約の一員とされるのでしょうか。それとも私たちは契約の一員であることのゆえに無罪とされ、キリストのうちにあるのでしょうか。それとも私たちは無罪とされたことのゆえに契約の一員とされ、キリストのうちにあるのでしょうか(だとすると何によって私たちは無罪とされたのでしょうか)。このような難解さの中で一つの真実は確かです。それはキリストの外に救いは無いということです。同時にキリストの体(訳注:契約共同体)をキリストの外で語るということもナンセンスです。キリストのうちにある(in Christ)ということは、救済論と教会論の双方を含んでいるのです。それゆえ私の暫定的な仮説は、義と認められる(無罪とされる)ということはキリストのうちに(in Christ)見出されることの一つの側面だというものです。[77]

義認の教理的位置付け

ジョン・ウェブスターは組織神学における義認論の位置付けを考察する中で、彼の視点から全体像を述べています。それは命そのものである神が、罪ある人々にご自身の完全な命を与える方法に関することです。そして神が自らを与える様式は、「救いの歴史」を通してなのです。そして「この救済史の一場面は全体の重みに耐えることはできない。」のです。(訳注:救いの一場面を救いの歴史の全体像より重んじてはならないという忠告)[78]ウェブスターはここで義認とは救いの歴史の中の一場面に過ぎないことに気づかせてくれます。救済史の一つ一つの場面が重要な貢献をしているのです。組織神学の役割は、「キリスト教教理のある特定の側面が、教会の福音全体の理解を歪め、あるいは矮小化してしまう可能性を抑制する」ことなのです。(訳注:例えばライトが指摘するような福音を天国にいくための方程式にしてしまう可能性)[79] まさにこの理由によって、またライトと改革派神学を調停すると言う目的のために、私は義認とキリストとの結合をまとめて考察することを提案しているのです。

キリストとの結合

「キリストのうちに」(in Christ)という表現はパウロ書簡の中に約150回登場します。ライトにとって「キリストのうちにある」というのは「救い主によって新しい意味を与えられた神の民と共にいること」です。[80](訳注:ライトにとって)神の家族の一員とされるということは、信仰義認のより完全な意味なのです。[81] 同時にそれは罪の転嫁について別の切り口で語っていることなのかもしれません。「イエスキリストが成し遂げた事柄は、彼のうちにいる(in him)人々のものとしてみなされる(reckon)のです。」 [82]

 しかし重要な問題は、具体的に何が私たちのものとして見なされるのかということです。それはキリストの「身分」にまつわることなのですが、それが王となった身分なのか、神によって死から復活した身分なのか、忠実な者としての身分なのか、正しい行いによって義をもたらした者の身分なのか、意見は分かれています。改革派の懸念は、ライトがキリストの父なる神への忠実さを矮小化してしまい、私たちが神の前で義と認められる土台を危うくしてしまうのではないかという点にあります。

 まさにこの点においてカルヴァンは、たとえ彼の釈義がパウロの歴史的状況を常に正しく理解していなかったとしても、また彼の信奉者たちが彼の救済論を彼以上に分割してしまったとしても、正しくパウロ的な示唆を持っていました。カルヴァンはこのように問います。「あなたはキリストのうちに(in Christ)義を得たいと願いますか?それならまずキリストを得る必要があります。しかしあなたは彼の聖化に加わること無くして彼を得ることはできません。なぜならキリストは分断されることはないからです。」[83] カルヴァンはここでライトが現代の福音派に見ている危険性(義認を天国への切符として捉え、聖化の歩みがおろそかになってしまうこと)を予期し、予防線を張っているのです。

 カルヴァンによると、義認も聖化もキリストとの結合から派生するものなのです。[84] そこには法廷的側面と形成的側面(訳注:聖化)の矛盾は存在しません。キリストの無罪性によって私たちには裁きの父の代わりに恵み深い父がおり、彼の御霊によって私たちは責められることのない聖い生き方を養うことができるのです。[85]義認(神の賜物)の恵みはもう一つの恵み(私たちの感謝の応答)の文脈であり同時に条件ですが、二つの恵みの間に時間的な溝があるわけではありません。[86] カルヴァンは、私たちは他者を愛し良い行いをする必要があるとは述べませんでした。その代わり、キリストのうちに新しくされた者として、私たちは他者を愛し良い行いをするのであると。(訳注:条件としてのwe have toではなく結果としてのwe will)ライトが私たちの現在の義認は未来の義認を予期していると述べる時、(訳注:パイパーが懸念するように未来の義認が不確定であるという意味ではなく)彼はこれと同じようなことに言及しているのではないかと捉えます。もしそうであるならば、彼は「二つの恵みは太陽の光のようなもので、その明るさと熱を分離することは出来ない」と言うカルヴァンの例えを用いることが可能だったかもしれません。カルヴァン自身、ここで天体の例を用いつつコペルニクス的革命を起こしていたのです。

子とされることの言葉と御霊:ことばの通りに成就する宣言

カルヴァンのキリストとの結合における「二つの恵み(訳注:義認と聖化)」は私が「組み込まれた義」と述べていることと繋がります。しかし私たちは、ライトのライオンと改革派のライオン(どちらも羊のようではありませんから)が共に平和的に寄り添うためにキリストとの結合がふさわしい場所であることを示すために、もう一歩進む必要があります。私は(キリストとの結合の従兄弟とも呼べるような)「子とされること(adoption)」こそが、共同体の構成員について(例:誰が神の家族の一員かということ)、また同時に神の前での法的な立場(相続権利)の両方の問いに答えうる仲裁的な概念だと考えます。ここで再びカルヴァンの言葉を引用します。「信仰によってあなたがキリストに接ぎ木された時、あなたは神の子とされ、天の世継ぎとされ、彼の義に与るのです。」[87] 子、世継ぎ、共に義に与る者(partaker)。私たちはこれをキリストとの結合によって生じる三つの恵みと呼べるでしょう。

パウロ自身、キリストが十字架上で成し遂げたことを説明するために様々なメタファーを必要としていたように、彼は「キリストのうちにある」と言うことを説明するために複数のモデルを提示する必要がありました。「子とされる」ことは、家族の一員であることを宣言すると同時に法的身分を授与する特に豊かなメタファーです。[88] それは救いの歴史全体を見通すことができるレンズでもあります。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、御心の良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:4-5)」「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。(ローマ9:4)」「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました(ガラテヤ4:4)」「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。(ローマ8:15)」

ライトはパウロの思考の中で、少なくとも義認論の文脈において「子とされる」と言うことに関してあまり述べていません。同時に改革派の組織神学者もこの点について残念ながらあまり言及してきませんでした。[89] 子とするというギリシャ語の語源huiothesia=huios(息子)+thesia(tithemi(配置する)から)は、それが意味(semantic norm)を決定するものではないにしても興味深いものです。[90] キリストと一体となるということは息子の位置に置かれるということです。子とされること―息子としての立場を受けること―は福音の強力な証言です。良い知らせとは、父なる神が私たちをキリストのうちに(in Christ)、私たちを彼の子供としてくださるということです。

 ここで私たちはパウロの最初の福音の定義を思い起こしたいと願います。「この福音は、・・・御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ1:2-4」」カルヴァンが「私たちの一致の絆」と呼ぶこの同じ「聖なる霊」は、子とする御霊でもあるのです。絆とは客観的、主観的双方の意味合いを持つふさわしい表現です。なぜなら、私たちのキリストとの結合は法的であると同時に家族的(filial)なものだからです。子とされることは、義認に家族としての身分を加え、キリストとの結合に法的側面を加えます。[91] 「生まれ変わる(born again)」という(訳注:主体的な)体験とは異なり、子とされることは法的な行為だからです。[92] 「子とする(adopt)」ことは家族としての身分を「転嫁」することだとも述べることができるかもしれません。[93]

そしてこれこそ私たちが求めているものなのです。パウロの思考の中にある、ライトが共同体のメンバーシップと述べることと、改革派がキリストの義の転嫁と述べることをつなぎ合わせる要素です。[94] ともすれば義認の判決が下される法廷は「養子の法廷(adoption court)」でもあるのかもしれません。その法廷において神は男と女を神の子供と宣言し、自らの権利を帰属させるのです、その権利は彼らに神を「父」と呼ぶことができる途方もない権利、またそれに付随する父の息子の御霊が私たちの心に宿る(ガラテヤ4:6)という終末的な権利も含みます。顕著な点は、「子とする」と言う概念は、現在と未来、また法廷的と家族的概念の橋渡しをする「キリストのうちにある(in Christ)」ことが何を意味するのかを表す一つの方法だということです。

クリスチャンは、子の身分(義なる子性(righteous sonship))を受けることにより神の契約的家族の一員になります。イエスキリストは、父がイスラエルとアダムに常に望まれていた正しい息子です。子とされる概念は、私たちのキリストとの結合を、個人および共同体、救済論および教会論両方の要素を反映し、三位一体論的に描く方法なのです。キリストにある息子と娘達である皆さん。私たちには神の御前にキリストの義を持っています。そして同時に、キリストの一つの体の部分として兄弟姉妹との一致を持っているのです。子とされることは、「組み込まれた義(incorporated righteousness)」という私のコンセプトとしての骨でしか無かった概念に、聖書的な肉付けを施すのです。

まとめると、(キリストとの)「一体となった身分」と「(キリストの義が)転嫁された身分」は子とされることにおいて一つとなるのです。このように説明することで、義認とは三位一体的な義についての神の伝達方法であるということを表すことができます。父なる神が他者(訳注:罪人)を、御霊を通して、信仰によって、キリストと一体とすることにより、子として受け入れるのです。父が宣言し、子がそれを可能にし、御霊が罪人の正しい歩みを確立するのです。[95] 義と認める、または義を宣言することによって、神は罪人たちを神の息子・娘、天の世継ぎ、共に義に与る者として、彼らの身分を回復するのです。

義認、キリストとの結合、子とされること、という三つの概念をつなぎ合わせることによって、私はライトの視点と改革派の伝統の間に横たわる醜い溝への橋渡しを試みました。観察者たちはこの溝の深さに関して異なる見解を持っています。しかし重要なのは、双方から橋をかけ続けることではないでしょうか。なぜなら義の転嫁であれ、共同体への参与であれ、一つの概念がパウロ神学の中心に立ち、他を排除してしまうことはあってはならないからです。ソロモンの知恵はこのようなケースにおいて分断ではなく対話を促します。その点において、ライトの義認論の中で最も悲しい現状を物語る文章は「私たちは対話できていない」[96]というものです。ですから最後に私は双方に非難の剣を対話の鉈へと移し替えるように(ミカ4:3)と呼びかけたいのです。

最後に

英国の神学者F.D.モーリスは正しかったのです。「人々は否定している事柄よりも肯定している事柄の方が正しい可能性が高い。」(訳注:ライトの肯定している事柄に関して)[97] その真実は論理的なものではなく心理学的なものです。つまり人々が主張するのは自ら経験、または発見した事柄である可能性が高いからです。C.S.ルイスはこのように説明しています。「否定的な主張は肯定的主張よりも確立することが困難です。一眼見ただけで私たちは部屋に蜘蛛がいると言うことができるでしょう。しかし蜘蛛が存在していないと主張するためには少なくとも部屋全体の大掃除をする必要があります。」[98]

ライトの明快な聖書に戻るようにという呼びかけ、また聖書の中から見出される大きな契約のイメージは歓迎されるべきでしょう。また神が全世界に対して一つの計画を持っておられたということ、義認の共同体的な側面についてもしかりです。しかし、これらの主張は議論を呼ぶような否定を必要としているのでしょうか?例えば、義認とは個人がいかに救われるかということでは無いというような主張です。私は、ライトの「イエス・キリストが成し遂げた事柄が・・・彼のうちにある(In Christ)全ての人々に与えられるというのは、福音の最も素晴らしい真実の一つである。」[99]と述べていることに大いに賛同します。しかし彼が同様の確信を持って、「裁き主が自らの義を転嫁するということは全く理にかなっていない。」[100] と告げる時、私は片方の手でしか拍手できないのです。なぜなら私たちが見てきたように、宗教改革者たちはキリストの契約への忠実さという「身分」の転嫁のことを述べていたからです。

一つの声が全ての真実を語ることは出来ません。一人の福音書記者がイエスキリストについて私たちに必要なことを全て語り尽くすことができなかったのであれば、新約学者の誰も真実の全てを語ることができなかったとしても不思議ではありません。聖書は教会の生活と思考における究極的な権威です。しかし聖書を究極の権威として取り組んだのはライトが最初ではないのです。たとえそれがライトほどの努力と途方もない知的な賜物を持っている人であったとしても、たった一人の人物がパラダイム革命を起こすことは出来ないのです。ライトはより多くの戦いに勝つ必要があるのではなく、より多くの味方を作る必要があります。

宗教改革者達および彼らの後継者達が、1世紀パレスチナの文脈の理解不足にも関わらず、聖書によって聖書を解釈することを信じ、聖書書全体の文脈(教父たちから受け継いだ伝統と共に)を重んじ、そして御霊による照明を受けていたからこそ、パウロの関心の中心を掴むことが出来たという可能性は無いのでしょうか。時にある出来事を正しく描写するためには二つの相反する視点を必要とする場合があります。ライトと改革派も同様のケースなのでしょうか。私には双方の主張(訳注:肯定している事柄)に明らかな矛盾を聞き取ることは出来ませんでした。しかし双方共に特定の事柄を否定することを辞め、対立構造を和らげる必要があるのではないでしょうか。改革派はキリストのうちにあると宣言されることの教会論的な意味を認める必要があるでしょう。ライトは彼の法廷のイメージを再考し、私たちのキリストとの結合におけるより完全な理解を提示する必要があるでしょう。そして双方共にパウロの「子とされる」ことのメタファーをそれぞれの救済論に組み入れる必要があります。

最後に、議論の双方共に対話の徳、つまり相手を正しく理解し、自らが正しく理解される努力を磨く必要があります。正直さ、公正さ、明瞭さなど対話の徳の中に含まれるものの中でも一つ際立っているのは、プライドと自己義認の対局にある謙虚さです。知的な徳の親戚でもある対話の徳は、正しいコミュニケーションと正しい思考を生み出します。特にその話題が、神が物事を正す(義認)ということについてであるなら尚更です。[101] 私が対話の徳と呼んでいるものは最終的には御霊の実なのです。さて、ここまで述べたところで、最後に今の状況に対してパウロが何と言い返すだろうかと当ててみることにしましょう。ライトに向けてだけではなく、私たち全員に向けてです。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)」

ヴァンフーザーへの応答

NTライト

「1世紀の背景は忘れなさい」と言うことなしに組織神学者が創造的に自らの提案に取り組んでいることを見るのは釈義家として常に励まされます。私たちの分野が重なる部分においてケヴィンは間違いなく私と同じようなことで喜びを感じているでしょう。彼の結論における対話的徳への呼びかけは素晴らしいものです。ですが注意が必要です。私たちの文化において謙虚さとはしばしば「自らの意見を言わない」ことを意味として想定するからです。ケヴィンはもちろんその方向は取りません。そして私は謙虚に対峙する挑戦に取り組まねばならないという点において同意します。ミロスラヴ・ヴォルフの「抱擁と排除」のように私たちには両方必要なのです。

詳細に移ります。全体像を見たい私のような人間にとって、ジェームズ・バーの「非正統的全体移動」は、関連性はあるものの、個々の木を観察する中で森という存在を忘れてしまった人のように見えます。そして実際宗教改革者と、彼らの言う正典的文脈を見る時、私たちは彼らの正典が非常に限定的なものであったということを念頭に入れておかねばなりません。彼らはガラテヤ書やローマ書を優先し、さらにそれらどちらに関しても(恐らく)正しく扱わず、そしてゆっくりとエペソ書やコロサイ書を脇に追いやり、神の国の到来という深い神学を含んだ四つの福音書に驚くほど関心を持たなかったのです。パウロに関するチャイルズの本について述べる時間はありませんが、彼が示す「正典的パウロ」以上のものがあると私は考えます。

福音の(訳注:中身についての)正しさをどのように保持するかと言うことについての議論において、この点は述べておく必要があります。ロマ書4:4-5の中でパウロにとって神が正しく無い者を義と認めるということは、単純に神が異邦人をアブラハムの家族に加えるというものだったということです。当然そこにはより広い適応が存在します。しかしパウロが意味していた意味の根幹を切り取ることは完全な福音という実を結ぶことには繋がらないでしょう。この点において私はなぜケヴィンが、私にとってメイン・プロットはアブラハム契約であり、サブ・プロットがアダムの物語だと述べたのか理解に苦しみます。むしろ逆に、私は神と創造の物語こそがメイン・プロットであり、神、アダム、被造物の物語はサブ・プロットであり、神、アブラハム、イスラエルの民の物語はさらにサブ・サブ・プロットだと提案します。そしてイスラエルを代表するメシアは、メイン・プロット(訳注:神の創造の物語)を解決するためにサブ・プロット(訳注:人類と被造物の物語)を推進し、解決するのです(ローマ8章)。この枠組みの中で、「救い」とは神にとって決してマイナーな関心ごとではなく、終始一貫して強調されているのです。しかし重要なのは、それが神の民に関する問いと、被造物を回復するという問いの中で行われるということであり、両者を切り離すことではないということです。私の読みがミニマリストであるというガターコールの意見は、むしろ私の全体像の提示がマキシマリストであるという批判を相殺するものです。『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』

 次に、ケヴィンが「より新しい視点」と呼ぶ私の視点(訳注:ライトのNPP)と共存可能な、彼のより広い改革派的枠組みの提案についてです。それこそが、私が常に達成したいと願っていたことなのです!そしてケヴィンがそれを明瞭に表現することを手助けしてくれたことに私は感謝しています。「組み込まれた義」という表現はパウロがdikaiosyneで表現しようとしていた意味を完全には捉えていないかもしれませんが、間違いなく正しい方向へ進んでいるでしょう。当初からの私の論点は、法廷的な側面と参与的側面の両方がパウロの思考の中で彼の契約的―つまりイスラエルを通してアダムを救うというー神学を形成していたというものです。義認を救いにまつわるその他大勢のメタファーの一つとして扱うということは論点がずれており、パウロ神学の具体的性―そして彼の神学全体!―を中心的テーマの周りに漂っている取るに足りない存在へと矮小化することになります。確かにパウロは様々なメタファーやモデルを用います。しかしメタファーやモデルが固有な、そしてふさわしい貢献をする一つの明確なナラティブが存在しています。メタファーと同時に主要な換喩(metonymy)も存在しているのです。

 そのナラティブの中でケヴィンは「子とすること」を、特にロマ書8章とガラテヤ3-4章において重要かつ主要なテーマとして強調します。彼がこの主題を私の著作における中心点であると感じなかったことに私は驚いています。この点をより強調する方法を見つける必要があるのかもしれません。確かに私はこの点を以前から非常に重要な点として捉えていました。ここにおいても「子とする」ということはある者を「神の子」というステータスに導きます。そしてそれこそイスラエルというカテゴリーです。

 ヴァンフーザーの議論の中で最も素晴らしい点はー彼の素晴らしい執筆力は別にしてー彼がロマ書5-8章を義認論における議論に持ち込んだことです。これは多くの改革派の人々が見落としている点です。ですから「子とすること」+「組み込まれた義」は正しい方向(wright direction)への大きな一歩でしょう。もちろん私たちは、「救い主キリストにおいて実現したことが彼の民にとっても実現した」というパウロの宣言が意図することの中心であり、その前面に来るのはキリストの「義」ではなく、救い主の死と復活であるということについてなど、今後も議論を深めていかねばなりません。それは当然ロマ書6章と洗礼にまつわる問いに繋がります。私はポスト宗教改革の学者達の多くにとって、洗礼とその効果に関するパウロの明確でリアルな表現への恥が、6章を義認論に組み込むこと無く、何となく読み飛ばしてしまうように向かわせたのでは無いかと推測します。それは今後の課題の一つでしょう。もう一つはパウロの律法に関する理解をどのようにヴァンフーザー・ライトの絵の中に組み込むかと言う点です。考えることは多いですが、同時に祝うことも多いでしょう。


[1] 訳注:NTライトの主著『使徒パウロは何を語ったのか』への比喩

[2] 訳注:カントの純粋理性批判への比喩

[3] Dictionary of Theological Interpretation of the Bible, ed. Kevin Vanhoozer (Grand Rapids: Baker, 2005)

[4] 訳注:ゴードン・コーンウェル神学校校長

[5] 訳注:What is at stake? Protestant Paul-bearers or pallbearers of the reformation? 使者(Bearer)と棺の運送係(pallbearer)をもじった言葉遊び。

[6] 訳注:Is the reformation something we must recover? Or something we must recover from? Recoverの持つ「取り戻す」「回復」という意味をもじった言葉遊び。

[7] John Milbank, “The New Divide Versus Classical Orthodoxy,” in Modern Theology 26 no.1 (2010): p. 26.

[8] Milbank, “Afterword,” in Radical Orthodoxy Reader (London: Routledge, 2009).

[9] 訳注:ミルバンクはカルバンのキリストの外的現実の強調を批判し、ネオ・プラトン主義的な存在において神に参与(participate)するという概念を強調。

[10] Milbank, “Alternative Protestantism: Radical Orthodoxy and the Reformed Tradition,” in Radical Orthodoxy and the Reformed Tradition, ed. James K. A. Smith and James H. Olthuis (Grand Rapids: Baker, 2005), pp. 25-42.

[11]

[12] N. T. Wright, Justification: God’s Plan and Paul’s Vision (Downers Grove: InterVarsity Press, 2009), p. 252

[13] 訳注:パウロ神学に関して様々な意見が乱立していることの比喩

[14] Alain Badiou, Saint Paul: The Foundation of Universalism (Stanford: Stanford University Press, 2003). Scripture quoted in this chapter is from the English Standard Version.

[15] Ed Sanders, “Paul Between Judaism and Hellenism,” in Saint Paul Among the Philosophers, ed. Jack Caputo (Bloomington: Indiana University Press, 2009), p. 74

[16] Ibid., p. 75.

[17] 訳注:ジョンパイパーやDAカーソンらを中心とした新しい改革派の運動

[18] N. T. Wright, “Paul in Different Perspectives,” a lecture given at Auburn Avenue Presbyterian Church, Monroe, Louisiana, January 3, 2005.

[19] N. T. Wright, “March 2004 Wright said Q_& A,www.ntwrightpage.com/Wrightsaid_March2004.htm.

[20] Wright, Justification, p. 106

[21] N. T. Wright, What Saint Paul Really Said: Was Paul of Tarsus the Real Founder of Christianity (Grand Rapids: Eerdmans, 1997), p. 7, with adjustments to math due to its publication in 1997.

[22] Wright, Justification, p. 49.

[23] この懸念はロス・ワグナーから来ています。(メタファー的表現は私のものですが)

[24] Maico Michielin, “Bridging the Gulf Between Biblical Scholars and Theologians: Can Barth and Wright Provide an Answer?” Scottish Journal of Theology 61 (2008): 431

[25] 訳注:どちらも重要だということを示唆する言葉遊び。

[26] James Barr, The Semantics of Biblical Language (New York: Oxford University Press, 1961).

[27] Wright, Justification, p.50

[28] 訳注:パウロのメッセージが編集・改ざんされたという様式批評的な意味ではなく、パウロが書いた書物の中から特定のものが聖書として選ばれ、伝承され、後に書かれた聖書箇所にも影響を与えていると言う意味。

[29] Brevard Childs, The Church’s Guide for Reading Paul: The Canonical Shaping of the Pauline Corpus (Grand Rapids: Eerdmans, 2008), p. 256.

[30] The nomenclature of “formal” and “material” principles (principium cognescendi and principium essendi) comes from Philip Schaff, The Principle of Protestantism (1845; reprint, Eugene, Ore.:Wipf & Stock, 2004), pp. 80-98.

[31] See the section on the “fourfold gospel” in Wright, What Saint Paul Really Said, chap.3.

[32] Ibid., p. 151

[33] David Bentley Hart, “The Lively God of Robert Jenson,” First Things 156 (2005):

[34] Wright, What Saint Paul Really Said, p.60

[35] 訳注:ウェストミンスター神学校教授

[36] Ibid., p. 45

[37] Michael Horton, Covenant and Salvation: Union with Christ (Louisville: Westminster John

Knox Press, 2007), p. 33.

[38] Ibid., p. 34.

[39] Michael Bird, Introducing Paul: The Man, His mission and His Message [Downers Grove, Ⅰ11.: InterVarsity Press, 2009], p.83).

[40] John Piper, The Future of Justification: A Response to N. T Wright (Wheaton, Ⅰ11.: Crossway, 2007), p. 15.

[41] Ibid.

[42] 訳注:ワシントン・アーヴィングの小説の主人公。20年間寝てしまい、目覚めた時に世界が変わっていたと言う話。

[43] Thomas S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions, 3rd ed. (Chicago: University of Chicago Press, 1996).

[44] Wright, Justification, p. 247

[45] See, Herman Bavinck, Reformed Dogmatics, vol. 2, God and Creation (Grand Rapids: Baker, 2004), pp. 221-28. 興味深い子にバーヴィンクは、義認とは「親切、情けや恵みのようなものでも、ましてや契約的忠実性(covenant faithfulness)のようなものでもありません。・・・義認とは法廷的用語であり、そうであり続けるのです。」(p. 225).と述べる中でライトの立場をすでに予期していました。.

[46] Wright, Justification, p.65

[47] Horton, Covenant and Salvation, p.61

[48] Henri Blocher, “Justification of the Ungodly,” in Justification and Variegated Nomism, ed. D. A. Carson, P. O’Brien, and M. Seifrid (Tubingen: Mohr Siebeck, 2004), p. 476

[49] Wright, “Paul in Different Perspectives.”

[50] Wright, What Saint Paul Really Said, p.119

[51] Wright, Justification, p.136

[52] see Wright, What Saint Paul Really Said, p.132

[53] Douglas Harink, “The Wright Way to Read Paul,” Christian Century 126, no. 24 (2009):32.

[54] Piper, Future of Justification, p.24.

[55] E.g., Michael F. Bird, The Saving Righteousness of God: Studies on Paul, Justification, and the New Perspective (Eugene, Ore.: Wipfoc Stock, 2007).

[56] 訳注:本当にジュネーブ人という意味ではなく、改革派という意味において

[57] 「カルヴァンの新視点」の提唱者達も、カルヴァンは義認と聖化をより重要なキリストとの結合の元に位置付けたと提唱しています。この立場に対する批判的評価については以下を参照。Thomas L. Wenger, “The New Perspective on Calvin: Responding to Recent Calvin Interpretations,” Journal of the Evangelical Theological Society 50 (2007): 311-28. See also Marcus Johnson, “New or Nuanced Perspective on Calvin? A Reply to Thomas Wenger,” JETS 51 (2008) : 543-58

[58] ライトも同意しています。「常々考えることなのですが、もしこれがパウロと律法に関する改革派の考えであり・・・それが聖書神学の主要な部分を担っていたとしたら・・・パウロ神学の新視点は必要ではなかったのです。」 (Justification, p.72)

[59] See J. Todd Billings, “John Calvin’s Soteriology: On the Multifaceted ‘Sum’ of the Gospel,” International Journal of Systematic Theology 11 (2009): 428-47.

[60] 訳注:ヴァンフーザーはポストモダン的解釈学に対して、神の言葉としての聖書の性質について、スピーチ・アクト理論を用いて説明し、伝統的な聖書理解を擁護したことで有名。Is there a meaning behind this text? など。スピーチ・アクト理論とは、言葉(発生)を「発語行為; locutionary act」、「発語内行為; illocutionary act」、「発語媒介行為; perlocutionary act」の三つの側面に分けて考察する。例えば「火だ!」と映画館の中で叫んだ場合、発語行為(locution)は火の存在を説明し、発語内行為(illocution)のレベルでは「火事だ!」という非直接的メッセージを発して、またそれを聞いた人が部屋から脱出するという「発語媒介行為(perlocution)」を生み出す。

[61] Anthony Thiselton, The First Epistle to the Corinthians: A Commentary on the Greek Text (Grand Rapids: Eerdmans, 2000), p. 455. ジョン・サールによれば、権威の座にある発言者は「ある命題的条件の中で特定された事柄を、「私がこの事象が存在するすることを宣言する」と発声することで実現させることが可能である。」 (Expression and Meaning [Cambridge: Cambridge University Press, 1979], p. 26).

[62] Eberhard Jiingel, Justification: The Heart of the Christian Faith (Edinburgh: T & T Clark, 2001), pp. 210-11.

[63] N. T. Wright, “New Perspectives on Paul,” in Justification in Perspective, ed. B. McCormack (Grand Rapids: Baker Academic, 2006), p. 258

[64] Wright, What Saint Paul Really Said, P.119

[65] Simon Gathercole, “The Doctrine of Justification in Paul and Beyond: Some Proposals,” in Justification in Perspective, ed. B. McCormack (Grand Rapids: Baker Academic, 2006), p. 229.

[66] Piper, Future of Justification, p.42.

[67] Wright, Justification, p.69

[68] Andrew Cowanとの会話によって着想を得た考えです。

[69] 訳注:原語to issue a finding裁判において事実認定を行うこと。

[70] 訳注:ジョン・パイパーの知名度に対する皮肉?

[71] Piper, Future of Justification, p.43.

[72] Bird, Saving Righteousness of God, p.34

[73] Bird, Introducing Paul, p.96.

[74] Mark A. Garcia, “Imputation as Attribution: Union with Christ, Reification and Justification as Declarative Word,” International Journal of Systematic Theology 11 (2009): 419.

[75] 私たちが必要としているのは、16世紀のプロテスタントとローマ・カトリックの関係に関してレーゲンスブルク帝国議会で行われた(かけた)議論の今日版なのです。義の内在性と転嫁の二重性を双方が認めた第5条はカルヴァンによって承認されました(Anthony N. S. Lane, “Twofold Righteousness: A Key to the Doctrine of Justification?” in Justification: What’s at Stake in the Current Debates, ed. Mark Husbands and Daniel J. Treier [Downers Grove, 111.: InterVarsity Press, 2004], pp. 205-24). レーンによれば、レーゲンスブルクにおいてプロテスタント側に求めたれていた唯一の譲歩は用語的なことだったようです。

[76] Bird, Saving Righteousness of God, esp. chap. 4.

[77] 訳注:キリスト抜きにして無罪と宣言されることも、契約共同体の一員とされることも考えられないことから、ヴァンフーザーは義認をキリストとの結合の一つの側面とする。キリストとの結合が論理的に先行することになる。(当然時間的には同時に起こる出来事)

[78] John Webster, “Rector et iudex super omnia genera doctrinarum? The Place of the Doctrine of Justification,” in What Is Justification About? Reformed Contributions to an Ecumenical Theme, ed. Michael Weinrich and John P. Burgess (Grand Rapids: Eerdmans, 2009), p.41

[79] Ibid., p. 47

[80] Wright, What Saint Paul Really Said, p.152

[81] Wright, Justification, p.134

[82] Wright, “Paul in Different Perspectives,” cited in Piper, Future of Justification, p.121.

[83] John Calvin Institutes of the Christian Religion 3.16.1 (John McNeill, ed., Library of Christian Classics, 2 vols. [Philadelphia: Westminster Press, I960])

[84]「キリストとの結合は、聖霊がすべての信仰者に対して、実現した救済的恩恵を明白に、不可分に、同時に、そして終末論的に適応するということの構造を整理する概念である。」Cf. Lane G. Tipton (“Union with Christ and Justification,” in Justified in Christ, ed. K. Scott Oliphant [Tain, U.K.: Christian Focus, 2007], p. 24). See also Richard B. Gaffin, “Biblical Theology and the Westminster Standards,” Westminster Theological Journal 65 (2003): 165-79; and Mark A. Garcia, Life in Christ: Union with Christ and Twofold Grace in Calvin’s Theology (Milton Keynes, U.K., and Colorado Springs: Paternoster, 2008).

[85] Calvin Institutes 3.11.1

[86] Billings, “John Calvin’s Soteriology,” p. 446. See also J. Todd Billings, Calvin, Participation, and the Gift: The Activity of Believers in Union with Christ (Oxford: Oxford University Press, 2007).

[87] Calvin Institutes 3.15.6

[88] Tim J. R. Trumper, “The Metaphorical Import of Adoption: A Plea for Realisation. I: The Adoption Metaphor in Biblical Usage,” Scottish Bulletin of Evangelical Theology 14 (1996):129-45.

[89] For a survey of this history of omission, see Tim J. R. Trumper, “The Theological History of Adoption. I: An Account,” Scottish Bulletin of Evangelical Theology 20 (2002): 4-28

[90] 「古典ギリシャ語やユダヤ文学のうちからもこの用語が際立って欠如している」 (Trevor J. Burke, Adopted into God’s Family: Exploring a Pauline Metaphor [Downers Grove, 111.: InterVarsity Press, 2007], p.22

[91] 義認論において子とされることのメタファーを再考することによって得られる救済論的な(少なくとも義認論に関して)利点については以下を参照。Tim J. R. Trumper, “A Fresh Exposition of Adoption. II: Some Implications,” Scottish Bulletin of Evangelical Theology 23 (2005): 194-215, esp. pp. 206-11.

[92] “Sonship by adoption should be carefully distinguished from . . . sonship by regeneration” (Louis Berkhof, Systematic Theology [Edinburgh: Banner of Truth, 1976], p.516).

[93] Cf. L. O. Yarbrough: “for . . . Paul. . . adoption into the family of God is a key metaphor for the new status believers have obtained” (“Parents and Children in the Letters of Paul,” in The Social World of the First Christians: Essays in Honor of Wayne A. Meeks, ed. L. M. White and O. L. Yarbrough [Minneapolis: Fortress, 1995], p. 140

[94] 大事なのは二つの概念をつなぎ合わせることであり、一緒くたにしてしまうことではありません。C.f.Trevor J. Burke (Adopted into God’s Family, pp.23-25).

[95] 義と宣言すると言う行為は「発語行為; locutionary act」、「発語内行為; illocutionary act」、「発語媒介行為; perlocutionary act」を全て含んでいる。

[96] Wright, Justification, p.20

[97] 同様の意見を持っているのは私だけでは無い。例:ロバート・ガンドリー「この視点は肯定していることにおいては正しいが、否定していることに関して誤っている。少なくとも神に関して、契約概念は神自身の性質に基づいているからである。」 Robert H. Gundry: (“The Nonimputation of Christ’s Righteousness,” in Justification: What’s at Stake in the Current Debates, ed. Mark Husbands and Daniel J. Treier [Downers Grove, 111.: InterVarsity Press, 2004], p. 35 n. 40); cf. またはマイケル・バード「最終的にNPPは肯定において正しく否定において誤っている。」Michael Bird: (Saving Righteousness of God, p. 182).

[98] C. S. Lewis, An Experiment in Criticism (Cambridge: Cambridge University Press, 1961), p.117.

[99] Wright, “Paul in Different Perspectives,” cited in Piper, The Future of Justification, p.21.

[100] Wright, What Saint Paul Really Said, p.98.

[101] See Robert C. Roberts and W.Jay Wood, Intellectual Virtues: An Essay in Regulative Epistemology

(Oxford: Clarendon Press, 2007)

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