福音派は差別に加担しているのか?(3)公民権運動と福音派の応答: キング牧師とビリー・グラハム

 アメリカの昨今の状況を踏まえて、「福音派は人種差別を生み出したのか?」という問いから始めたこのシリーズ。前回までにアメリカの人種問題と福音派の関係を時系列を追って外観してきました

1・奴隷時代~独立戦争前
2・奴隷解放宣言~世界大戦まで

 福音派と人種問題というテーマで歴史を振り返る際に、一つの鍵となるのはその時代を代表する教会指導者の「声」です。今まで奴隷時代のエドワーズとホワイトフィールド、南北戦争前のフィニー、そして解放宣言後のムーディ、とそれぞれの時代を代表する指導者達を取り上げてきました。そして今日は20世紀のアメリカにおいて最も影響力を持っていた二人。公民権運動を代表するキング牧師と福音派を代表するビリー・グラハムを中心に考えていきたいと思います。

1・時代背景

社会福音 VS 福音主義

 キング牧師とビリー・グラハムを理解する上で、必要なのは20世紀の教会の置かれていた状況です。白人教会と黒人教会の分裂については前回記しました。しかし、人種間の対立だけではなく20世紀は神学的対立が顕著になった時代でした。1904年に出版されたラウシェンブッシュの「キリスト教と社会的危機」を機に「社会福音」運動が始まります。ラウシェンブッシュはイエスキリストの十字架を罪の身代わりとして(刑罰代償)はとらえず、神の国は個人が天国に行くことではなく、地上での人生を天国の調和に変えることだと訴えました。[1]その結果多くのクリスチャンが社会運動に、そして政治に関与していくようになります。

 同時に聖書の歴史性や個人の救いを否定する自由主義に根ざした社会福音運動に危機感を覚えた保守的な教会指導者達は1910-1915年の間に「ファンダメンタルズ誌」を出版します。プリンストン大学を中心に広がっていったこの運動は自由主義神学や社会福音運動と対立し、その運動は全米に広がります。所謂現代の「福音派」の源流です。(その後保守派の中でもFundamentalismとEvangelicalismが分かれていくことになりますが、これ以上は別のテーマなので割愛します)この時代に社会派と福音派という今日まで至るプロテスタント教会の分裂が決定的となります。[2]その中で社会派は社会責任、福音派は魂の救いという対立構造が生まれてしまいます。プリンストンで教鞭を取っていたアードマンはファンダメンタルズ誌の中で、平等の権利を求めている人々に対して「そのような人々に対し教会は『あなたは生まれ変わらなければならない』と繰り返すのです。」[3]と記しています。当時の福音派の社会運動に対する態度を表している文書だと思います。

個人の見解おじさん
リベラル神学と対峙し、聖書を擁護した点は◎でもリベラル神学との対峙の中で「伝道」or「社会的責任」という極端な分断が出来てしまったことは残念・・・

構造的貧困

 20世紀初頭には激しい南部の人種差別を逃れるため、多くの黒人が南部から北部の都市部に移住しました。Great Migrationと呼ばれる現象です。その後第二次世界大戦が勃発し、多くの黒人が兵士として働きました。しかし戦争後、退役軍人支援のために設けられた復員兵援護法は黒人の退役軍人にはほとんど適応されませんでした。[4]その結果多くの黒人退役軍人は退役後、都市部の低所得の仕事につくことになります。

 また、当時は1936年に設立された住宅所有者貸付公社(Home Owner’s Loan Corporation)によって、土地の価値が安全性などを基準として評価されていました。そして黒人が住んでいる地域はその黒人の所得等に関係なく、「赤線」(土地の価格が下がる可能性が高く、債務者の返済能力が低い地域)として分類されたのです。[5]「赤線」に分類された地域に家を購入しようとしても抵当権は全て拒否されました。その結果「赤線」地域で良い家を買うこと、またはそれを維持することが非常に困難となり、現代に至る「黒人街」として知られるような貧困地域を生み出しました。[6](ちなみにこの人種による土地の価値の評価は、1960年に人種による土地の評価が禁止されるまで公式に行われていました。)都市部に元々住んでいた白人は土地の価格が落ちることを恐れ、郊外に引っ越して行きます。結果として都市部の黒人層の増加と反比例するように白人層は郊外に移り、現代に至るまで続くアメリカの住宅事情(都市部に黒人が集中し郊外に白人層(特に富裕層)が集中)が形成されて行きます。ちなみに都市部に存在していた工場などでの肉体労働は徐々に人件費の安い国に輸出されるようになり、都市部の黒人街の貧困は加速していくことになります。

個人の見解おじさん
黒人の犯罪率が高いことから、黒人の自己責任論として片付ける人達がいるけど、本当にただの自己責任なのだろうか?現代のアメリカの人種問題を考える上で重要な白人と黒人の貧富の差の理由の原因の一つに、個人の選択だけでは片付けられないこのような住宅事情を含めた構造的な社会格差があることはあまり知られていないかも。

2・キング牧師の功績

 ジムクロー法による黒人差別、黒人の都市部への移住、福音派と社会派の対立構造。そのような時代背景の中、1955年。26歳の新米牧師だったキング牧師はモンゴメリー地域改善委員の代表として専任されます。それがキング牧師が公民権運動と関わることのきっかけとなります。[7]1955年5月、当時15歳だったクラウデット・コルヴィン、そして12月にはローザ・パークスと、1年の間に二つのバスの座席を巡る逮捕事件が起こります。ジムクロー法の区別に従わず、白人用の席を譲らなかったという理由での逮捕でした。この二つの事件をきっかけにキング牧師はモンゴメリー・バスボイコットを率います。1年以上続いたこのボイコットの結果、1956年11月のバス車内人種分離法違憲判決によってモンゴメリー州内のバス内での人種による分離は違法とされました。このニュースは全米に駆け巡り、一躍キング牧師は公民権運動の指導者として知られることとなります。

その翌年1957年に、キング牧師は公民権運動のために黒人教会をまとめる組織として南部キリスト教指導者会議 (SCLC)を結成します。ガンジーの非暴力主義に感銘を受けたキング牧師は、積極的な非暴力主義による抗議活動を開始します。その後1960年にはグリーンズやナッシュビルで行われた座り込みによる抗議活動が成功を収め、運動は全国に展開していきます。しかしその後ジョージア州アルバーニで大規模な解放運動を展開しますが、運動は失敗に終わってしまいます。アルバーニでの失敗を受け、SCLCは世論を覆すための戦略的拠点として南部で最も差別の激しい地域として知られていたアラバマ州バーミンガム市に活動の拠点を移します。世論を動かし、最高裁の決断を呼びかけるためには大きなインパクトが必要だとキング牧師は感じていました。[8]実際にバーミンガム市の窮状、大規模な無抵抗デモ、そして白人の暴力的な反応が全米に報道される中、一気に世論は公民権運動側に傾いていくことになります。特に警察による暴力は顕著で、高圧ホース、警察犬、警棒などで子供を含むデモの参加者を撃退する様子は多くの人にショックを与えました。キング牧師自身も1963年4月の抗議デモの最中で、バーミンガム市警によって投獄されています。その時獄中から書かれたキング牧師の手紙は「バーミンガムからの手紙」として出版され、広く知られています。

 バーミンガムで投獄された3ヶ月後、キング牧師は他の公民権指導者と共に奴隷解放宣言100周年を記念する大集会を企画します。1963年8月に行われた、25万人を超えるワシントンDCへの大規模行進です。この行進の中には10万人弱の白人層も加わっていました。この行進は数で威圧する目的ではなく、あくまで平和的な、キング牧師が「創造的ロビー活動」と名付けた運動でした。それだけの人数が集まっていたのにも関わらず衝突は一切起こりませんでした。そしてキング牧師の有名な”I have a dream”(私には夢がある)の演説が行われます。この行進は世論の盛り上がりにさらに火をつけ、ついに翌年の1964年7月2日に公民権法が制定されます。公共機関、教育、選挙などの分野においての分離や差別が禁じられることとなり、ついに法律上の差別が撤廃されました。

3・ビリー・グラハムと公民権運動

 福音派の公民権運動に対する応答

 公民権運動が盛り上がりを見せていた50-60年代。アメリカの福音派の反応はどうだったのでしょうか。日本語の文献では公民権運動と福音派の展開は別物として扱われることが多く、それぞれの運動の関わりについてはあまり取り上げられていない印象です。白人のクリスチャンの中にも公民権運動を支持する人々はいましたが、ほとんどは北部の社会派クリスチャン層でした。北部の福音派は共産主義やリベラル神学との対峙を主な関心とし、公民権運動にはあまり関心を示していませんでした。(例えばクリスチャニティ・トウデイ紙面上、1957年から1965年の最も公民権運動が盛り上がっていた時期にも関わらず公民権運動に関連する記事は2回しか掲載されていません[9])その反面南部の福音派の大多数は積極的に分離主義を支持し、公民権運動を批判する動きを展開しています。1954年アメリカ長老教会(PCUS)の集会で語られたベルハーヴェン大学校長のGTギルスビー氏による「クリスチャン的分離主義」と題した講演は、南部福音派の空気感を表しています。その中でギルスビー氏は聖書の中に人種間の分離を明確に勧める箇所は存在していないとしながらも、人種は神の「自然の法」によって制定されたものだと語りました。また、レビ記の律法も異なる種のものを混ぜ合わせてはならないことを説いているとし、人種間の分離は聖書的に妥当なものであると論じました。[10] 多くの福音派指導者にとって公民権運動のような政治運動は、福音派が戦ってきた社会福音の動きを想起させました。また公民権運動の指導者の中には、実際共産党と関わりのある人物(例:バイヤード・ラスティンなど)も存在していました。リベラル主義や社会福音との戦いの中で生まれてきた福音派が公民権運動に対して協力的では無かった理由には、そこに至るまでの神学的展開も影響しています。

ビリー・グラハムと公民権運動

 そのような時代背景の中、ムーディーやビリー・サンデー等のリバイバリストの後継者として頭角を現わしつつあった若きビリー・グラハムは、当初彼の先行者と同様人種問題に関しては関与しない姿勢を貫きます。1940-50年代のビリービリー・グラハム集会では、座席は全て人種によって分離されていました。1951年にビリー・グラハムは人種問題について、個人的には人種問題の改善を願っているものの、公民権運動のような政治運動は善より悪をもたらすと考えていること、その理由として運動の背後には共産主義者がいることを述べています。[11]50年代のビリー・グラハムには、分離に反対しつつも、政治問題に巻き込まれることにより運動に影響が出て欲しくないという葛藤が見られます。例えば1953年カリフォルニアで行われた集会では、「このロープが降りているままか、リバイバル集会を私抜きで行うかどちらかだ。」と述べ、自ら座席を分断するロープを引き下ろしています。[12]その反面、分離政策に反対する発言が南部の教会から反感を買った際には地域新聞にてこのように弁明しています。「私は分離政策に関して誤解を受けているように思います。私たちは奉仕する地域の社会のしきたりに従って活動しています。私が聖書を学んでいる限りにおいて、聖書は分離についても非分離についても述べていません。私は聖書を語るためにジャックソンに来ました。地域の問題に首を突っ込むためではありません。」[13]

 しかし1954年のブラウン判決(学校教育における分離政策は不平等であるとする判決)以降、ビリー・グラハムは自身の集会において一切の分離を認めないようになります。(54年以降南部での集会を避けるようにもなっていきますが)そして自身の団体の運営に関しても黒人を積極的に起用していくようになります。また、1957年には自身のニューヨークの集会に南部キリスト教指導者会議 (SCLC)を設立したばかりのキング牧師を招き、開会祈祷と指導者層向けの人種問題に関する講演を依頼しています。またキング牧師自身も、ビリー・グラハムのリバイバル運動からSCLCの大規模運動のインスピレーションを受けたと言われています。[14]57年の大会後、キング牧師はビリー・グラハムに感謝の手紙を送っています。その中でキング牧師は「福音宣教の領域において歴史はこの出来事を文字通りの大成功(tour de force)として記録することでしょう。神はあなたを通してこの大会の中で素晴らしいことを行ってくださいました。」とニューヨークの集会の成功を讃え、「人種関係に関してあなたがとってくれた立場に関して非常に感謝しています。あなたは勇敢にキリスト教の福音を人種間の問題と急務である全ての側面に届けました。」と記しています。[15]キング牧師にとって何よりも白人層に絶大な人気と影響力を持っていたビリー・グラハムなら、キング牧師が届くことができない南部の白人層に届くことができると考えたのです。後にキング牧師が「グラハム博士の協力なくして公民権運動の成功は無かっただろう。」と述べていたという情報もあります。[16]少なくともこの時期両者は友好的な関係だったと言えるでしょう。(ちなみにその1年前の1956年に初回の日本ビリー・グラハム伝道大会が行われています。)

 しかし残念ながら両者はその後別々の道を辿っていくことになります。キング牧師の運動が全国に広がり影響力を増していく中、ビリー・グラハムは徐々に距離を取るようになっていったようです。ビリー・グラハムは人種問題の根本は人間の罪にあると考え、個人の改心こそが人種問題の解決だと捉えていました。政治活動やデモ活動を積極的に行っていったキング牧師の方法論には同意できなかったのです。その後キング牧師は1958年の手紙の中で、サン・アントニオで行われる大会の中で分離主義を推奨しているプライス知事が招かれていることを危惧し、ビリー・グラハムが分離主義を推奨しているとの誤解を受けないようにプライス知事の招待を取りやめるように勧めています。[17]しかし、ビリー・グラハムはこの手紙に返信せず、キング牧師の要請を却下します。ここら辺からビリー・グラハムの政治と距離を置く姿勢と、キング牧師の戸惑い(57年の手紙とは明らかにトーンが変わってきている)が見て取れます。そして63年のワシントンの行進の際も、ビリー・グラハムは招待を断っています。興味深いことにビリー・グラハム本人は自伝の中で、キング牧師からの言葉を以下のように回想しています。「ビリー、あなたはスタジアムにとどまっていてほしい。なぜなら町で行進するよりもそのようが白人の既得権益層に対してあなたの影響力を発揮することができるからだ。(中略)そして私は彼の助言に従ったのです。」[18]つまりキング牧師の運動に参加しないことで二人は合意していたと言うのです。このビリー・グラハム自身の回想に関しては、キング牧師の発言の真偽のほどを巡って様々な対立が見られます。(例えばキングの周りにいた友人たちはキング牧師はそのようなことを言うはずがないと証言しています)ことの真偽は当人たちにしか分かりませんが、少なくともビリー・グラハム自身が自分の役割はあくまでスタジアムで福音を語ることであり、キング牧師の公民権運動とは働きが異なると理解していたことを表しています。

4・公民権運動を巡って二分されるビリー・グラハムの評価

 以上の流れからも想像できるように、人種問題を巡るビリー・グラハムの貢献に関しては見解が二分化しています。ビリー・グラハムを所謂「白人福音派(White Evangelical)」の代表とし、彼が差別を助長していたとする視点[19]と、二人は友人であり、キング牧師の公民権運動はビリー・グラハムの運動によって支えられていたとする視点です。個人的には後者の見解はビリー・グラハムの功績を少し美化しすぎているのではないかと感じます。特に60年以降ほとんど二人の接点がなくなることから、実際は支持も否定もしない距離の取り方をしていたのでしょう。そのことはキング牧師のI have a dreamスピーチに対するビリー・グラハムの反応からも伺えます。キング牧師が、いつか彼の子供達が白人の子供達と遊べる日が来るビジョンを語ったのに対して、ビリー・グラハムは「アラバマの黒人の子供達が白人の子供達と手と手を取り合って歩くことができるようになるのはキリストが再び来られる時になってからだ。」[20]と述べています。当時ビリー・グラハムが公民権運動から徐々に距離を取るようになっていったことが分かる発言です。以上の発言からも分かるようにあくまでビリー・グラハムにとって人種問題の解決は個人の救いと改心でした。その姿勢はビリー・グラハム以前の信仰復興運動の指導者にも見られるものでした。このビリー・グラハムの分離主義撤廃や人種差別への反対を口にしながらも公民権運動に協力しなかった(特に後半)姿勢に関して、2020年のベストセラーとなっている「Color of Compromise(妥協の色)」の著者ティスビー氏は、ビリー・グラハムに一定の評価を与えつつも、結果的に彼の妥協が差別を助長してしまったとして批判しています。[21]

 当のビリー・グラハム本人も、当時の彼自身の行動について後に「もっと出来ることがあった」と反省の弁を述べています。後に黒人の福音派指導者としてキング牧師の後継者と呼ばれたジョン・パーキンズ氏はビリー・グラハム氏との1970年代に交わした会話を回想し以下のように述べています。
「ビリーが私に人種差別の縄を取り除くためにもっと多くのことを行わなかったことを後悔していると話してくれたのを覚えています。彼は悔い改め、私に赦しを求めました。ビリーは多くのことをしたのにも関わらず。彼は謙虚さを持っていて、私はそのことを尊敬しています。」[22]

 また2005年のAP通信へのインタビューにおいても公民権運動ともっと関わらなかったことを後悔していること、特に1965年キング牧師と共にアラバマ州セルマで行われた投票権を求めるデモ行進に参加しなかったことを後悔していると述べています。「私はセルマに行かなかったことで間違いを犯したと感じています。私はもっと出来ることがありました。」[23]

個人の見解おじさん
現代の視点からビリー・グラハムの中途半端な姿勢を批判することは簡単だけど、きっと当時の福音派の状況の中で色々としがらみもあったんだろうな。本人ももっと出来たって反省してるように。後の時代になって気づくことにどうやったら「今」気づくことが出来るんだろう。

5・その後の福音派の展開

 以上20世紀を代表する教会指導者キング牧師とビリー・グラハム氏を通して公民権運動と福音派の関係を概観しました。今の時代の私たちから見ると、ビリー・グラハムの中途半端に見えるような姿勢はもどかしく感じるでしょう。個人的にはビリー・グラハム氏自身が「もっと出来ることがあった」と後悔しているように、20世紀最大のスポークスマンだった二人がもっと協力しあうことが出来ていたら、白人教会と黒人教会の分断は現在より少なくなっていたのではないかと残念に思う気持ちがあります。同時にリベラル神学との戦い、社会運動=社会派、伝道=福音派という対立構造が明確になっていた時代背景がその根底にあったことも覚えておきたいと思います。社会問題に言及することや、政治に関わることによって「リベラル」や「共産主義者」というレッテルが貼られかねない当時の時代背景の中では限界があったのかもしれません。

 しかしその後20世紀後半にかけて現在に至るまでの間で、福音派と社会問題に関するスタンスは少しづつ変わっていきます。1974年にはイギリスの福音派指導者ジョン・ストットとビリー・グラハムによって呼びかけられたローザンヌ世界伝道会議(150か国から約2,400人の福音派リーダーが集まったこの会議をTIME誌はトップ記事として特集し「驚異的な規模の公開討論の場であり、キリスト教史上、おそらく最も広範な参加者を集めた会議」と報じました。)において福音派の共通の宣教論を打ち出したローザンヌ誓約が可決されます。その大きな特徴は、「伝道」と「社会的責任」を福音宣教の両輪をして定義したことです。伝道or社会活動という対立軸として描かれていた概念が、福音宣教の中で相反するものではなく、協力関係にあるものであるということが確認されました。そしてローザンヌ誓約以降、キング牧師の後継者と呼ばれたジョン・パーキンズ牧師のような福音派黒人指導者が登場していきます。更に黒人福音派指導者のバトンはパーキンズの元で活動したクリス・ライス(その後デューク大学和解センターを設立)などの白人指導者によっても受け継がれていきます。そして現代では南部バプテスト神学校学長のアルバート・モーラーティモシー・ケラーのような福音派の中心的な指導者も、福音宣教を強調しつつ、同時に積極的に社会問題にも言及するようになりました。以下の動画はティム・ケラーのリディーマー長老教会での講演「人種差別と社会的悪。白人の視点」です。

個人の見解おじさん
ケラーもモーラーも保守的なファンダメンタリスト層からは「共産主義に妥協した」と批判されてる。意見の違いはもちろんあって良いけど、すぐ「共産主義」っていうレッテルを貼るのはどうなんだろう。聖書が語る「正義」と共産主義的な「社会正義」との違いを区別して考えていく必要があるなあ。。

 以上3回にわたって福音派と人種差別の歴史について概観してきました。とても3回のブログ記事では扱いきれない話題なので、色々と取りこぼしや至らない部分もあったと思います。ジョージ・フロイド氏の事件をきっかけに世界中で報道されることになった人種差別問題。様々な意見が乱立し、左に右に世論が揺れ動く中です。それだけとても感情的になりやすい話題でもあります。福音宣教を重んじる福音派クリスチャンとして、歴史から、異なる文化から、そして何よりも聖書から謙虚に学び続けていきたいと願います。


[1] Bruce Bawer, “Stealing Jesus: How Fundamentalism Betrays Christianity 95.

[2] 詳しくは宇田進『福音主義キリスト教と福音派』(1993)いのちのことば社参照。       

[3] Charles R. Erdman, “The Church and Socialism,” in The Fundamentals: A Testimony to the Truth, 19862, Kindle.

[4] https://www.history.com/news/gi-bill-black-wwii-veterans-benefits

[5] 詳しくはWilliam Julius Wilson, “More Than Just Race- Being Black and Poor in the inner city”を参照。 特に第2章”forces shaping concentrated poverty”

[6] Ibid. 28.

[7] Jesmar Tisby, “Color of Compromise: The Truth about the American Church’s Complicity in Racism” 160.

[8] David Lewis, “King: a Biography” 175.

[9] Michael Emerson and Christian Smith, “Divided by faith” 46.

[10] Jesmar Tisby, “Color of compromise” 163.

[11] William C. Martin, “Prophet With Honor” 169.

[12] Steven P. Miller, “Billy Graham and the Rise of the Republican South” 28.

[13] William C. Martin, “Prophet With Honor” 170.

[14] https://www.christianitytoday.com/news/2018/february/billy-graham-martin-luther-king-jr-friendship-civil-rights.html

[15] https://kinginstitute.stanford.edu/king-papers/documents/billy-graham

[16] https://billygraham.org/story/remembering-dr-martin-luther-king-jr/

[17] https://kinginstitute.stanford.edu/king-papers/documents/billy-graham-0

[18] https://billygrahamlibrary.org/billy-graham-on-martin-luther-king-jr/

[19] https://www.cnn.com/2018/02/22/us/billy-graham-mlk-civil-rights/index.html

[20] William C. Martin, “Prophet With Honor” 296.

[21] Jesmar Tisby, “Color of Compromise” 170.

[22] https://www.christianitytoday.com/edstetzer/2018/february/john-perkins-billy-graham.html

[23] https://apnews.com/20d646efe23c469fbbc83cd04ec2fc17

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