パウロ神学の最新の動向が一発で分かる!ジョン・バークレー「NPPとその後:パウロ研究はどこに向かっているのか」講演(後半)

ダラム大学新約教授(Lightfoot Professor of New Testament)で、パウロ神学における第一人者であるジョン・バークレー教授がローマのイエズス会所属のPontifical Biblical Instituteに招かれた際の講演(下記リンクを参照)の邦訳です。近年のパウロ神学の動向を45分で網羅しています。講演の後半はパウロ神学のNPP後の動向についてです。(見出し・小見出し・注釈等は訳者による)

前半(NPPの特徴のまとめ)はこちら

II近年のパウロ解釈における4つのパターン

ここでは、NPPに対する応答として登場した4つのトレンドを概観します。あるものはNPPに対抗し、あるものはそれをさらに発展させました。もちろん、すべてを網羅することはできませんし、これらの傾向に関する私のコメントは、私自身の私見を含んでいることをご了承ください。最後に、私なりの捉え方について述べたいと思います。それは、私が他のすべての考え方よりも優れていると思っているからではなく、明日の講義への繋がりを築くためです。

第一の立場:旧来の視点の方が良かった(DA Carson, Thomas Schreiner, Douglas Mooなど)

新視点に対する最初の反応を簡単に要約すると、「旧視点の方が良かった」です。NPPの主張には説得力が無いと感じる学者が存在し、彼らはNPPのパウロ解釈を無理矢理であり得ない読み方だと考えます。たとえば、「律法の行い」がユダヤ教のトーラー遵守を第一義的に指すと認識されていたとしても、これらの学者(プロテスタントとカトリックの両方を含む)は、パウロ自身が自分の主張を一般化し、行い全般について語ることがあると主張します。例えば、ローマ4章、ローマ9章、ローマ11章、エペソ2章、テトス章などです。したがって、アウグスティヌスや宗教改革者たちだけでなく、パウロ自身もガラテヤ人への手紙やローマの信徒への手紙で取り上げた問題を、異邦人がユダヤ人の習慣を実践する必要があるかどうかという固有の問題だけでなく、より広く、普遍的に適用されるものとして考えていたと主張するのです。

特にガラテヤの信徒への手紙において、パウロは非常に具体的な問題を取り上げているのは間違いないでしょう。しかし、パウロはそれを、救済論全体の核心的かつ普遍的な原則に関わる枠組みの中で行っているのではないだろうか?同様に、旧来の視点の方が良かったと考える人々は、パウロがローマ人への手紙2章3節にあるようにユダヤ人の高慢さを批判するとき、それが一種の国民的特権意識についてのみ語っているという解釈には納得しません。それは第一コリントでパウロが語っている「誇り」の仕方と類似していないだろうか。そして、パウロがキリストの出来事の中に見出したものは、ユダヤ人の民族的な誇りだけでなく、人間の資源や伝統に対するあらゆる高慢さの解体であることを示唆しているのではないだろうか?旧来の視点の方が優れていると主張する人々の中には、単に自分たちの告白的伝統に固執していたり、ルター派やカルヴァン派のパウロ解釈に忠実であることを要求するプロテスタントの教育機関で教鞭をとっていたりすることは間違い無いでしょう。そのような人々にとって、宗教改革的なパウロ解釈を批判することは、自動的に間違いになるのです。

しかし、このようなNPPに対する反発の根底には、もっと広く深いものがあると私は思っています。NPPの初期の主要な人物たちは、伝統的なパウロの神学的読み方に対してある種の反感を示すか、少なくともそれらの伝統に対して無知でした。そして彼らは、パウロの神学を単に60年代や70年代の社会的専門用語に翻訳しているだけだと批評家から指摘されたのです。たとえばサンダースは、「恵み」や「行い」というテーマに関しては、パウロと同時代のユダヤ人との間に大きな違いはないと宣言しました。しかし、もしパウロが、ひいてはキリスト教全体が、恵みについて何も特別深いことを述べていなかったのであれば、キリスト教神学の伝統の多くは取るに足らないものになってしまうでしょう。しかし、ガラテヤ2章やローマ3:4章のような箇所で、パウロが恵みと律法を対比させる方法には、パウロ独特の急進的な何かがあるのでは無いでしょうか。言い換えれば、新しい視点は、パウロ神学のいくつかの特徴に私たちの目を開かせることによって、逆に他の特徴に関して私たちを盲目にしてしまったのでしょうか。

代表的書物
D.A. Carson, Peter O’Brien, Mark Seifrid, Justification and Variegated Nomism

第二の立場:N.T. ライト

第二に、NPPの第一人者の一人であるNTライトは、NPPの洞察を、パウロ神学の彼独特の契約物語的な読み方へと発展させました。ライトに関してはパウロ神学の神学的側面を軽視していると非難されることはないでしょう。なぜなら、彼はNPPの主要な特徴を、神とその民との契約の歴史に関する大きな物語体系に当てはめて論じるからです。パウロに関する彼の大著は1700ページにも及ぶので、その論旨を数行で要約するのは困難です。簡潔に述べると、パウロは神のイスラエルとの契約(アダムの罪に巻き込まれて以来守ることができなかった契約)のクライマックスを告げ、メシアであるイエスがイスラエルの民を総括し、代表し、イスラエルの罪と全世界の罪を自らに負わせることによって、その契約の物語が成就する、というものです。それゆえイエスは、神の民が全世界に広がるという当初のアブラハムの約束を成就させます。したがって異邦人も、国家的特権や特別な地位なしに、この「一つの民」に含まれるようになるのです。

イスラエルにとって、すべての人がキリストを信じる信仰によって救われるのは、義に向かう自らの努力では救われないからではなく、メシアが全世界に対する神の目的を要約しているからであり、したがってすべての人が同じ条件で救われるからです。ここには典型的なNPPの特徴が見られますが、それらはサンダースやダンの想像をはるかに超えた体系に発展しています。焦点は(個人ではなく)教会という共同体にあり、その体系は第二神殿ユダヤ教の文脈におけるパウロの歴史的理解に基づいています。ライトは、パウロの時代には、イザヤ書などに記されている回復の約束がまだ実現していなかったため、ユダヤ人はたとえ祖国に住んでいたとしても、自分たちはまだ捕囚状態にあると考えていたと主張します。したがって、パウロが人間の状態について語るとき、彼はアウグスティヌスやその後に続く中世の伝統のような抽象的な概念(訳注:罪への奴隷状態)ではなく、メシアを待ち望む世界におけるユダヤ人と異邦人の社会的、経済的、政治的状況について語っているのです。

ライトは、後世の神学的枠組みをパウロの手紙の中に読み込むことに強く反対していますが、同時に教会人(彼はかつてダラムの司教でした)として、テキストの読み方が与える神学的影響に非常に関心を持っています。それは何よりもまず、教会論に関する事柄なの絵dす。すべての民族、ユダヤ人、そしてすべての国民からなる神の民は、主なるメシアであるイエスに第一の忠誠を誓うのであって、(ライトにとってパウロの手紙の行間にしばしば文章の背後に潜むもう一人の主)カエサルに忠誠を誓うのではないのです。契約の強調は、ライトのパウロ解釈におけるカルヴァン主義的影響の一つですが、彼は義認に関する伝統的なプロテスタントの理解(そしてそれがもたらすカトリック神学への暗黙の批判)から距離を置いています。

私自身は、神の民の正しい物語にライトが語るように全てがきれいに収まるとは思っていません。そして、パウロが語る物語に関しても、ライトは把握していない部分があると感じています。ライトは、パウロがローマ4章でアブラハムの物語を語るとき、ブルトマン派の伝統で一般的に考えられていたように、信仰による義認の一例としてアブラハムを用いているのではなく、アブラハム契約が最初から異邦人を含めることを約束していたことを示すために、アブラハム契約の始まりに立ち戻っているのだと主張します。確かにアブラハムは単なる一個人の信仰者の例ではなく、民族の始祖です。 しかしパウロは、他の第二神殿文書で語られている方法とは非常に異なる特殊な方法でアブラハムの物語を伝えています。それはアブラハムの状態と神の賜物や恵みとの間のミスマッチを強調する形式です。アブラハムの信仰は、当然の報いではなく、分不相応の賜物であるという点を見据えています。神の約束における彼の希望は、神が不可能を成し、イサクの誕生において死から命を蘇らせることです。異邦人を含めることは、単なるイスラエルの物語の継続と成就ではなく、受け手の能力や価値に関係なく機能する恵みの同時並行的行為であり、かつその頂点でもあります。言い換えれば、もし私たちがパウロの物語を理解しようとするなら、私たちは特にその内なる論理、そして神の目的が展開されて行く方法に目を向ける必要があるのです。それは直線的な進歩や展開ではなく、驚き、反転、そして直感に反するような奇跡において現されます。何よりも、パウロが福音書の中で告げていることを、彼自身が「新しい創造」と呼んでいるのですから。

代表的書物N.T. Wright, Paul and the Faithfulness of God

第3の立場:ユダヤ教内のパウロ(Paul Within Judaism)(Mark Nanos, Magnus Zetterholmなど)

第三に、新視点からのもう一つの発展形は、急進的新視点(Radical New Perspective)と呼ばれるもの、あるいは、「ユダヤ教内のパウロ(Paul Within Judaism)」と自称されているものです。この系統の解釈の最大の特徴は、パウロの手紙のどこにも、パウロの神学のどこにも、ユダヤ人やユダヤ教に対する批判はなく、ユダヤ人がイエスを信じる、あるいは信じるべきであるという期待もないという主張です。この考え方のルーツは、先に述べたポスト・ホロコースの状況にまで遡り、一部の神学者たちは、キリストの出来事は異邦人のための救いである一方、イスラエルはモーセ契約を通して常に神への特別な道を持っており、それはキリストの影響を受けていないと主張しました。さらに最近では、パウロはトーラーの権威に疑問を呈したことはなく、ユダヤ人信者(彼自身を含む)があらゆる点で律法を遵守することを期待していたと主張されています。

パウロが異議を唱えたのは、異邦人信者に対する律法の押しつけだけであり、ガラテヤ人への手紙とローマの信徒への手紙における律法に関するパウロの否定的な記述は、異邦人への律法の適用に対してのみ向けられたものだとします。これらの手紙の中で、パウロは異邦人信者に対してのみ、また律法との関係においてのみ異邦人信者について語っていると主張するのです。そして、パウロが語っていることがユダヤ人にも適用されると考えるのは、キリスト教の解釈者たちの当初からの過ちであったというのが彼らの見解です。そしてそれは無意識な間違いではなく、キリスト教の伝統に内在する反ユダヤ主義の一部であると論じます。また、のちに起こるキリスト教とユダヤ教との間の分岐を、パウロと初期キリスト教世代に逆投影しているのです。パウロはキリスト教徒ではなくユダヤ人であり、キリスト教徒というレッテルはまだ発明されていなかったからです。また、ユダヤ人とは別の「キリスト教徒」というアイデンティティもまだ生まれていませんでした。ユダヤ人であるパウロはイスラエルと律法に忠実で舌が、異邦人の間で宣教を行い、彼らをイスラエルの神に合流させました。 NPPの急進的な拡張として、これはサンダースの研究を土台としているものの、サンダース、ダン、ライトに対抗して、ユダヤ人であるパウロが同胞であるユダヤ人に対して何らかの批判を加えることは想像できないと主張し、パウロがユダヤ教を批判したと考えるのはキリスト教的反ユダヤ主義の一形態であると論じます。

その懸念の一部は理解できるものの、このようなパウロの読み方には正直なところ説得力がないと言わざるを得ません。そもそも、パウロが自分の福音を異邦人にとってもユダヤ人にとっても良い知らせだと考えていることを否定することは不可能だと思います。そうでなければ、ローマ1:16のような文章をどのように読めば良いかが分かりません。福音は、まずユダヤ人にもギリシャ人にも、信じるすべての人に救いを与える神の力です。パウロがローマ9-11章で苦悩しているのは、まさにイスラエルがすでに救われていることを当然と考えることができず、イエスが異邦人もユダヤ人もすべての人の主であると受け止めているからです。パウロは、ユダヤ人であった自分の経験を範例としているようであり、それはまた、神に生きるために律法に死ぬことを意味しています(ガラテヤ2:19)。パウロがある意味でユダヤ教の中で活動し、当時「キリスト教」と呼ばれるものは存在しなかったということは、誰もが認めるところでしょう。

しかし、パウロは急進派であり、会堂で5回もひどく殴られるほどの問題を起こし、エルサレムに戻った時にはほとんどのユダヤ人から勘当されるほど、変則的で非常に論争の的となるユダヤ人だったようです。この「ユダヤ教内のパウロ」学派は、特にアメリカではかなりの支持を集めていますが、その多くが強引な釈義に基づいているように私には思えます。しかし、ローマ人への手紙11章におけるパウロのイスラエルとの関係、そしてイスラエルの救いへの希望を再考するパウロの関心は、確かに真剣に受け止めるべきでしょう。パウロのイスラエルに対するこの不思議な希望に一貫性がないと考える人がいる一方で、ローマ人への手紙9章から11章を一つの神学的な糸に従った一貫した議論として捉えることは可能なのでしょうか?私は可能だと考えていますが、その方法に関しては明日まで待っていただくことになります。

代表的書物
Mark Nanos, Magnus Zetterholm,
Paul within Judaism: Restoriing the First-Century Context of the Apostle

第四の立場:黙示的パウロ(Apocalyptic Paul)(Lous Martyn, Bevely Gaventa, Douglas Campbellなど)

最後に、(NPPとは直接接点が無いものの)パウロ研究におけるもう一つの学派について触れておきます。それは、黙示的パウロ学派と呼ばれるようになったものです。「黙示的」という言葉は人によって意味が異なり、黙示文学と呼ばれるものに登場するモチーフの集まりを意味するのか、それとも神と世界についての特定の考え方を意味するのかに関して、長い間、学者たちの論争の的となってきました。特にJ.L.マーティンの研究に関連するこのパウロ解釈の本質的な特徴は、パウロの世界観における悪の力の存在を強調することであり、人間は、人間の主体性によってコントロールできるものよりもはるかに広く深い宇宙の戦場に巻き込まれているという点です。言い換えれば、人間の問題は私たちが行う罪でなく、私たちが神の力によって解放されない限り、私たちを支配している罪と死の力なのです。黙示的な読み方に付随する強調点として、パウロはキリストの出来事を人間の物語のクライマックスとしてではなく、人間の物語をバラバラにし、人間の進歩や発展の概念を破壊する、いわば外からの侵略(invasion)として描いているという点です。

このようなパウロ解釈の神学的基盤は、カール・バルトの初期の神学にまでさかのぼります。しかし、キリストにおける恩寵の神的な力が以前の物語の改良や完成にとどまらず「新しい創造」を生み出すという点で、最近この解釈は新たな反響を呼んでいます。現在、NTライトに関連するパウロの契約的解釈と、JLマーティンに関連する黙示的的解釈の間には、かなり鋭い線が引かれる傾向がありますが、両者の違いは時に誇張されています。マーティンの著作は、NPPの問いを逆行することによってNPPと関連しています。NPPはパウロの宣教によって異邦人がユダヤ人のように生きることなく神の民に入ることができるようになったのはなぜか、という問いを投げかけるのに対して、黙示的解釈は、この物語における最初の動きは、神の民の外から内への人間の働きではなく、キリストにおいて神から世への神の働きであると主張します。そして、信仰に基づく私たち側の応答に関しては、自律的な個人の意思としてではなく、聖霊よって、聖霊の媒介を通してなされるとします。有名な律法の働きとキリストへの信仰との間のアンチテーゼについて、マーティンや他の人々は、後者のpistis christuというフレーズを主格的属格としてとらえることに大きな重きを置きます。「キリストの信仰」とは、人間の信仰ではなく、キリスト自身の忠実さという意味です。そのように理解して初めて、救いは私たちのものではなく、キリストの行為として明確に示されるのだとマーティンは主張するのです。私自身はこのpistus christuの解釈に同意していません。

私は依然として「キリストへの信仰」としてこの箇所を理解しています。しかしこの黙示録的パウロには重要な特徴があります。それは、パウロが共同体の創造について語っているのであれば、この共同体について最初に語られるべきことは、教会が人間の決定や社会的取り決めの結果としてではなく、神の御業の産物であるということを思い起こさせてくれることです。言い換えれば、マーティンはパウロの神学に神(theos)を戻し、パウロの神学において、神が無から有を創造することによって、人間の達成や自然の期待に逆らう方法を強調しているのです。黙示的パウロ学派に強く見られるのは、この破壊的で逆行的な神学(disruptive subversive theology)なのです。

代表的書物
Jamie Davies, The Apocalyptic Paul: Retrospect and Prospect

バークレーの見解

最後に、パウロに関する私なりの結論をいくつか述べて終わりにしたいと思いますが、これを新しい学派の地位にまで高めるほどの図々しさは持ち合わせていません。私は1979年に神学を学び始めて以来、ずっと「新しい視点」とともに学者人生を歩んできました。私は、ユダヤ教を行いの宗教とする古い描写に戻ることは不可能であり、プロテスタント宗教改革の遺産に従ってそのような言葉を使い続けることは、不必要であり、有益でもないと考えます。しかし、私は、第二神殿のユダヤ教における恵みの理解は一様ではなかったと考えるようになりました。パウロの恵みの神学が、彼の異邦人宣教とどのように関連していたのか、またイスラエルや聖書に対する理解とどのように関連していたのか、この10年間このテーマに取り組んできました。パウロの義認の神学は、罪ある個人についてのルターの問いに答えるものではなく、彼の異邦人宣教との関係で練られたものであると言うのが正しいと思います。パウロが語る律法の働きとは、一般的な善い行いでもなく、あらゆる律法の働きでもなく、キリスト教会の第一世代で問題となったユダヤ教の律法を守ること(言い換えれば、ユダヤ人の生き方への適合)を指しています。ここまでは、 NPPです。

しかし、ここで疑問に思うのは、なぜパウロは異邦人がユダヤ教の律法の習慣を取り入れる必要はないと言ったのか、ということです。異邦人には適用できないと考えたのでしょうか?それとも、キリストの到来によって、律法が時代遅れになったのでしょうか?それとも何か他の理由があったのでしょうか?アウグスティヌスやその後継者たちが、パウロの神学の中核にあるのは「恵みの神学」であり、恵みは人間の努力を補助するものでも、人間の達成に対する報酬でもなく、人間の価値とは関係なく与えられる恵みであることを見抜いたのは、正しかったと私は思います。他のユダヤ人たち、そして実際、古代のほとんどの人々は、神は恵み深く寛大な方だと考えていました。しかし同時に、神の最高の賜物は、民族、教育、社会的地位、性別、道徳的業績などを理由として、ある程度受ける価値がある人に与えられるものだと一般的に、また当然のこととして信じられていたのです。つまり、神は素晴らしく寛大であるが、人を区別される方であると一般的に信じられていました。したがって、サンダースが言うような、ユダヤ教が恵みの宗教であるかということは問題ではありません。むしろ問題は、この恵みをどのように理解するかです。この問題については、第二神殿のユダヤ教内部でかなりの議論があり、契約順守主義(covenant nomism)の単一のモデルではなかったと思うのです。しかし、パウロにとって、神の恵みは、キリストという賜物において最も顕著に見られ、また生きるものでした。パウロと異邦人の改宗者の両方が経験したこの賜物は、ユダヤ教の律法によって定義された価値基準や義の基準を含む、それまでの価値基準とは無関係に与えられるものなのです。

ガラテヤ人への手紙とローマの信徒への手紙を読んだ時に、このことがどのように見えるかについては明日説明します。しかしパウロについての新しい視点に照らして、このことがどのように当てはまるかを知っていただくために、簡単にあらすじをお伝えします。これらの手紙におけるパウロの神学の多くが、彼の異邦人宣教と、神の約束との関係におけるユダヤ人と異邦人の位置づけに関わるものであることに、私は基本的に同意します。しかし、私が問いたいのは、その異邦人宣教使命の神学的基盤は何なのかということです。新しい視点がパウロの神学における多くの特徴に光を当てたとしても、パウロはそのテーマについて特に特徴的なことを述べていないという理解から、パウロの恵みの神学を軽視する傾向があります。恵みは、新視点よりも旧視点に関連するテーマだからです。しかし私自身は、新しい視点の有効な洞察を支持するためには、まずパウロの神学と宣教が、神の恵みによる召しに基づいていることを理解することが必要だと考えます。それは人間の価値基準とは無関係に行われるために、異邦人の民族的劣等性を無視する召しです。さらにパウロは、イスラエル自体が最初からそのような一方的な恵みによって構成されていたと考えます。異邦人はキリストによってイスラエルの物語に接ぎ木されていますが、それはミスマッチ、逆転、そして神の創造的な働きによって形作られた物語です。従って、旧来の視点が恵みというテーマに焦点を当て、ユダヤ教を体現していないという点において、基本的に正しいと私は考えています。また、パウロの神学の文脈が異邦人宣教の条件であるという点においては、NPPは基本的に正しいのです。私の目的は、恩みのさまざまな可能性のある意味を新たに理解することによって、この2つを結びつけることです。

パウロ研究は混迷を極めています。現在、新約聖書研究の中で最も論争の的になっている分野であることは間違いないでしょう。パウロ自身が困難であり、何世紀にもわたって積み重ねられてきたパウロ解釈の層が非常に厚いため、手綱さばきが難しいのです。この分野では、毎年多くの新書が出版され、その中には非常に大規模なものもあります。しかし、初期キリスト教研究の中心的な問題のいくつかがここに集約されており、キリスト教神学の最も重要なテーマのいくつかがパウロによって初めて明確にされたため、エキサイティングな研究分野でもあります。パウロ研究は、ドイツ・プロテスタント神学の特定の一派に数十年にわたって支配されてきたため、揺り戻しを必要としていましたが、現在では、単に古い視点と新しい視点のどちらを選ぶかという単純な話ではなくなっています。パウロについては、競合する多くの読み方があり、それぞれが提供するものがある。明日からは、ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙の両方において、パウロの恵みの神学がどのように救済論の根底にあるのかを明らかにしたいと思います。ありがとうございました。

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