Youはなぜアメリカに?
前回の記事(大分前ですが汗)「アメリカの神学校 に行く理由(1)日本の方がレベルが低い?」では、海外に行かずとも日本の神学校でも十分に、そして場合によっては海外以上に学べることを書きました。そのブログ記事を読んで「え、だったらどうしてアメリカに留学したの?」と疑問に思った方も多いと思います。今回は3つのポイントに分けて、なぜ「あえて」アメリカで学ぼうと思ったのか、アメリカでしか学べないことはあるのかまとめてみようと思います。海外の神学校への留学を考えている方にとっての参考になれば幸いです。
以前の記事で神学の基本的な四つの分野について記しました。世界中どこの神学校でも、牧師を志す方が受講するカリキュラムであればこの神学の四分野(聖書神学、組織神学、歴史神学、実践神学)を網羅しています。アメリカの神学校も、牧師を志す人が受講する牧会修士と呼ばれるMDiv(Master of Divinity)は、日本の神学校のカリキュラムと比較してもそこまで大きな科目面での違いは少ないことは前回の記事でお伝えしました。最近の海外の傾向としては聖書神学を削り、実践を増やす方向ではありますが、いわゆる「福音派」の神学校であれば日本とカリキュラム上での大きな違いは無いでしょう。
1・学べる分野の幅広さ
ではアメリカでしか学べないことはあるのか?その答えは選択科目(Electives)にあります。アメリカの神学校の卒業単位は80-100程度ですが、そのうちの10-30単位程度は「選択科目」です。選択科目の比重は神学校によって異なります(トリニティは必修選択科目9なのでかなり少ない方です)が、どこの神学校も少なからず選択科目を設けています。そしてその選択科目の幅において学べることの範囲がとてつもなく広いのです。例えばトリニティで言うと牧会修士の必修クラスに含まれていないクラスは1学期に100クラス以上あります。必修の選択科目は9単位(1クラス3単位程度)なので、3クラス分なのですが、選べる範囲が100クラスあるのです。笑
なぜこれほどの選択肢を用意できるかというと、アメリカの神学校の多くはMDiv以外にもMA(Master of Arts)という学位を提供していることが理由です。Master of Artsはいわゆる日本で言う2年生の大学院の修士単位と同様のものです。MDivは卒業単位が80-100、卒業に4年ほどかかるのが通常ですが、MAはその半分の40-50単位で平均2年で卒業出来ます。MAはまんべんなく神学の四分野を学ぶMDivとは異なり、ひとつのことに集中した学位です。例えばMA in New Testament(新約修士)やMA in Systematic Theology(組織神学修士)といった具合です。そしてそれぞれのMAを授与する「学部」が存在しています。(例:新約学部、組織神学学部)MDivではなくMAを履修する人は宣教師、すでにMDivを履修済みの牧師、牧会ではなく研究のため、ユースパスターなど様々です。特にMAの学生が多いのがMental Health Counseling(カウンセリング)学部、Educational Ministry(教会教育)学部、Intercultural Studies(宣教学)学部などです。それぞれの学部は様々な授業を提供しており、MDiv学生はそれぞれの学部から必修科目を満遍なく履修しますが、MAの学生はその学部が提供しているクラスを全部履修出来るわけです。(MAの中にも選択科目はあるので全てではないですが)
以下はトリニティ神学校が提供しているMAプログラムのリストです。それぞれ学部として(一部例外あり)機能しています。(例:新約学部が新約のMAを提供)
・MA in Educational Ministries (教会教育。教会学校や信徒訓練)
・MA inMental Health Counseling (カウンセリング)
・MA in Biblical Archeology (聖書考古学)
・MA inChurch History (教会史)
・MA in Intercultural studies (宣教学)
・MA inNew Testament (新約学)
・MA in Old Testament (旧約学)
・MA in Systematic Theology (組織神学)
そしてMDivの生徒が選択科目を選ぶとき、MDivに含まれていない様々な学部が提供する科目を自由に履修することが可能になります。ですから必修科目以外に100以上のオプションが存在しているわけです。日本の神学校では(同志社などの総合大学は別ですが)基本的にアメリカでいうMDiv以外のオプションはありません。ほとんど全ての人が同じカリキュラムを履修し、牧会修士としての学びを進めます。海外の神学校のように「新約だけ」「組織神学だけ」という修士課程は多くの日本の神学校にはありません。その点アメリカは、神学の各分野の学部と修士学位(MA)が存在しているため、それだけ選択科目の数が圧倒的に多いです。
それではどのような「選択科目」が存在しているのでしょうか。例えばカウンセリング学部の履修可能科目を見ると必修以外の科目でいくつか例をあげると以下のようなクラスが存在しています。
・スキル・トレーニング ・メンタルヘルス入門
・家族カウンセリング ・結婚カウンセリング
・グリーフケア ・クライシスカウンセリング
・ジェンダーアイデンティティ ・中毒カウンセリング
・グループ・カウンセリング ・自助グループ形成論
・性についてのカウンセリング ・カウンセリング論
・多文化的カウンセリング ・カウンセリング倫理
・精神分析・キャリアカウンセリング
また、必修科目にはほとんど入っていない考古学の分野では以下のようなクラスが提供されています。
・聖書考古学入門 ・聖書考古学各論
・聖書地理 ・中近東宗教学
・イスラエル史 ・アラム語 I&II
・アッカド語I &II ・ウガリト語
・シュメール語
また、以下は信徒教育学部(Educational Ministry)が提供している授業の一例です。
・ユースミニストリー ・教会運営
・世代間を繋げる働き ・教会内の衝突解決
・教会のコミュニティ形成 ・教会学校の歴史
・教会の家族形成 ・チーム形成論
・信徒リーダー育成論 ・霊的に健康なリーダー論
・高齢者ミニストリー ・教会の財産マネジメント
・教会とお金 ・小学生ミニストリー
・中高生ミニストリー ・大学生ミニストリー
・ハンディキャップと教会
上記は8つの学部のうち3つの例にすぎません。このように各分野ごとにMDivの必修以外の自由選択科目が合計100以上あるのです。笑 これらの授業は日本の神学校では中々学ぶことが出来ないものがほとんどだと思います。学生たちがそれぞれ将来の働きの必要を考え、痒い所に手が届く授業を選択科目として受講出来るわけです。また学生は聴講が無料なので、選択科目の範囲を超えても自分の興味のある授業は聴講することが可能です。MDivとしての基本カリキュラムに関しては日本とあまり変わりが無いものの、自由選択科目や聴講出来るクラスを含めて考えると、科目の選択肢の幅に関してはアメリカの神学校の方が圧倒的に広いということが言えると思います。(もちろん、選択肢が多ければ良いというわけではありませんが)
ちなみに私は組織神学分野への興味が強いので選択科目はほぼ組織神学系を取っています。今学期は選択科目の中から「解釈学」と「組織神学各論:摂理」を受講し、「結婚カウンセリング」を聴講しています。来学期は「カウンセリングスキル」や「教会内の衝突解決」などを聴講しようと思っています。
2・異なる学びのスタイル
次に、アメリカと日本の大きな違いは「学びのスタイル」です。これは日本とアメリカ両方の神学校で学んだ身としては大きな違いとして実感する部分です。これはどちらが良い・悪いではありません。そして神学校の違いというよりも根本的な日本とアメリカの文化の違いが大きいと思います。神学校以外の学校教育でも同じような傾向はあるでしょう。ざっくり言うと日本は「弟子ー師匠モデル」アメリカは「討論モデル」と言えるかもしれません。
日本の神学校のスタイル「弟子ー師匠モデル」
日本の神学校は基本的には生徒が先生から学ぶ「弟子ー師匠モデル」だと言えるでしょう。神学校に限らず日本では経歴などでよく「〜〜先生に従事」という文言を目にすることがあると思います。その「先生に従事する」というのが日本特有の(アジア全般かもしれませんが)学びのスタイルと言えるでしょう。(もちろん学校や先生によって様々差はあると思いますが)このような学びのスタイルの場合、生徒の「意見」はあまり求められません。また先生の意見に対して「反論」することはあまり一般的ではありません。あくまで師匠から学ぶという一方通行的なイメージです。このモデルには当然メリットもあります。様々な意見や論に混乱することなく学ぶことができるという点です。これは特にポストモダン化している現代において実は大きなメリットです。脱構築主義(Deconstruction)という考え方が欧米では広がっていますが、一つの「真理」は存在せず、それぞれの主張(解釈共同体の視点)が重視されます。アメリカのメインラインの神学校で学んでいるある友人が「神学校に入って何が正しいか良くわからなくなった」と語っていたことが印象的でした。その点日本のモデルでは、様々な意見に揺らぐことなく、「〜〜です!」といい抜ける力がつきます。牧会の現場においてそれは一つの魅力だと思います。信徒の方から質問されたとき、「〜は〜言っていて、こっちの人は〜言っていて・・こう言う考え方もあって・・」というはっきりしない返答になってしまう可能性もあるかもしれません。その反面ある先生に従事するというスタイルであれば「〜〜です!」と言い切れます。
アメリカのスタイル「討論モデル」
日本の弟子ー師匠モデルと比べ、アメリカは「討論モデル」です。そこでの先生と生徒の関係は弟子と師匠ではなく、切磋琢磨するパートナーに近いかもしれません。もちろん生徒と先生の関係ですから完全に対等ではなく、そこには教師への尊敬の念は存在しています。しかし、日本と異なり、生徒の役割は先生の教えをそのまま受け取ることではなく、自らの考えを先生とのやり取りの中で構築していくことです。授業は一方通行ではなく、大抵の場合学生の意見が求められます。そして学生が先生の意見に対して反対や懸念を示すこともしょっちゅうです。しかしそれは「失礼」な行為には値しません。むしろ授業中何も発言せず、先生の言うことをメモしているだけの学生の方が、授業中に散々反論していた学生よりも点が低いなどということはよくあります。笑 学生同士が発表し、討論するというのも授業の中で良く行われます。学生たちは切磋琢磨する中で自らの考えを少しづつ築き上げていくのです。このモデルの利点としては、「自分で考える」力が養われることだと思います。様々な議論に対して、自分はどう考えるのか。様々な生徒と意見を交わし、教師と切磋琢磨していく中で自分なりの考え方の方法論が確立されていくのです。またもう一つの魅力は意見の違い=対立にはならない点です。討論モデルは意見が異なる相手と尊敬を持って対話をし続ける訓練となるでしょう。
このモデルを象徴しているのが私のアカデミック・アドバイザーでもあるハロルド・ネットランド先生です。彼は宣教師として日本のTCUで教える以前、アメリカのクレアモント神学校で博士課程を履修しています。彼の指導教官は宗教多元主義で有名なジョン・ヒックでした。ジョン・ヒックは全ての宗教は根本的には同じであるとした「宗教多元主義」の提唱者の一人として有名です。しかしネットランド先生の博士論文は仏教との関係において宗教多元主義を否定し、キリスト教と仏教の独自性を打ち出すものでした。日本の「弟子ー師匠」モデルから考えるとありえないことです。師匠の研究に対して真っ向から反対する博士論文を書いたわけです。しかしアメリカではそれはそこまで珍しいことではありませんし、「失礼」に値するものでもありません。ジョン・ヒックとネットランド先生は全く異なる意見を持ちつつ、今だに関係は良好とのことでした。ヒック先生が来日し講演した際にはネットランド先生は通訳として同行し、ヒック先生の講演の後に、「反論講演」を行い、会場をざわつかせたと言います。
この二つのモデルはそれぞれ長所も短所もあります。個人にとって学びやすいスタイルかということもあるでしょう。私は幼少期にアメリカで育ちました。またフランスに引っ越すまでの中高を過ごした渋谷教育学院のモットーが「自調自考」(自分で調べ自分で学ぶ)だったこともあり、アメリカの「討論型」の方が自分のスタイルにあっていると感じています。
3・最新の神学を先取りできる
最後のポイントとして「最新の神学が学べる」という点が挙げられます。ここで一つ注意点として最新=最善ではないということを述べておきたいと思います。学者はその性質上、常に新しい発表をする必要があります。以前他の人が言ったことと全く同じことを提案してもそれは価値がないどころか、下手すれば盗作扱いされてしまうでしょう。神学も同様で、学問としての神学者は常に新しい発表をするプレッシャーにさらされています。ですから時に「新しい発題をする」こと自体が目的化してしまうようなことも起こり得るのです。なので最新の研究が常にベストであるというような進歩主義的な考え方には注意が必要です。CSルイスが指摘したような時系列的怠惰(chornological snoberry)に陥ってしまわないよう注意は必要です。
BUT!!最新=ベストではないにせよ、多くの場合最新の議論は日本に遅れて入ってくるものです。翻訳の関係などから通常アメリカの議論は日本に10-20年遅れて輸入されると言われています。(最近はインターネットの発達やSNSなどによってそのスパンが短くなってきたように思いますが)そして日本に情報が届いた頃には、アメリカではすでに一歩先の展開が起きていることが大半です。以下いくつか具体例を挙げたいと思います。
NTライトの義認論 VS 改革派の義認論
「信仰義認」とは、信仰によって、信じる者にキリストの義が与えられること(転嫁)として伝統的に考えられてきました。しかし近年、N.T.ライトを始めとするNPP(パウロ研究の新しい視点)の立場に立つ学者達は、従来の考えは宗教改革者達によるパウロ理解の誤解だったと主張しました。中でもライトは福音派の聖書学者であったためー彼は自由主義神学に対してイエスの復活の史実性を学問的に論じましたーアメリカでは、ライト派VS改革派という福音派内での論争が巻き起こりました。先日邦訳されたジョン・パイパーの「義認の未来」はまさにその論争の最中に記されたものです。 アメリカで10年前に巻き起こった論争が10年経って日本で再現されている形です。その後アメリカでは双方の陣営から様々な書物が出版され、議論が深められていきました。中にはライトの義認論と改革派の立場を調停しようとするような学者も出てきました。(私の指導教官の一人であるヴァンフーザー先生もその一人でした。彼のライトの義認論に対する改革派組織神学者としての応答講演の記事はこちら。)
ジョンウオルトンの創世記1章の解釈(機能的創造論と宇宙神殿論)
従来は「無からの創造」の箇所として考えられてきた創世記一章を、ウオルトンは「創世記一章の再発見」において、物質的な創造ではなく、「混沌に機能を付随する」行為であったと提唱しました。創世記一章が描いているのは物質の創造ではなく、秩序の創造だとしたのです。(ちなみにウオルトンは無からの創造の否定はしておらず、あくまでこの箇所はそれについて述べていないとします)また、宇宙全体を神様の「神殿」のモチーフとして捉え、7日間の創造を宇宙という「神殿の建築」を現す表現であるとします。機能的創造論にしても宇宙神殿論にしても、ウオルトンは古代メソポタミアの文献から、現代人の視点ではなく当時の文脈で聖書本文を理解しようとします。ウオルトンは日本で来日講演も行い、様々な反応(賛否両論含め)を巻き起こしました。
ウオルトンはアメリカの福音派の旧約学者の中では最も広く読まれている著者の一人です。著作はアメリカでもベストセラーとなり、彼の機能的創造論や宇宙神殿論は神学議論の中心となりました。しかしアメリカではここ5、6年で流れが変わりつつあります。例えばホウィートン大学でウオルトンの同僚でもあるダニエル・ブロックなどによって、ウオルトンが中近東の文脈を聖書に読み込み過ぎているという評価が広がりつつあります。現在のアメリカの福音派神学校では、ウオルトンに一定の評価をしつつも、創世記1章の物質的創造の否定や宇宙神殿論のモチーフは少し行き過ぎているという考え方が主流となっているような感覚です。(完全に個人の感覚ですが)例えばアヴァーベックによる反対論文参照
このように、アメリカで学ぶことはある意味日本の「未来」を見ることにもつながります。逆に考えると今アメリカで起きていることが何年か後に日本で起こることもあり得るわけです。もちろん文化は異なりますし、キリスト教の事情も全く異なるので、アメリカで起こることがそのまま日本で起こるわけではありません。しかし少なくともある種の神学におけるトレンドのような(良くも悪くも)ものを先取りできるというメリットは大きいと思います。
まとめ
以上長くなってしまいましたが、自分が「あえて」アメリカの神学校で学ぼうと思った理由をまとめると
1・学べる分野の幅広さ
2・異なる学びのスタイル
3・最新の神学を先取りできる
の三点が挙げられます。繰り返しになりますが、これはアメリカの神学校が日本よりも優れているというわけではありません。この三点が魅力的かどうかは人によって変わると思います。また今回は詳しく述べることが出来ませんでしたが、例えば高い学費、語学力が必要、個人主義(神学生同士のコミュニティは日本の方が断然強いです)などアメリカの神学校で学ぶことの「デメリット」もあります。総合的に考え、また自分自身の将来のビジョンを踏まえて考えることをお勧めします。
(何か質問等あれば遠慮なくコメント欄にご記入ください)
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