アメリカの神学校に留学していて実感すること。それは自分が寄留者であるということです。留学生として学んでいるこの時期はあくまで一時的であり、大学の寮生活も仮住まい。自分には日本という帰るべき場所がある。勉強する時も、奉仕する時もいつも「日本という文脈においてこれはどういう意味があるんだろう」「日本人に伝わるだろうか」と常に日本という故郷に心が向きます。ある意味アメリカでの留学生活は自分にとって日本に帰国した後のための「備え」です。

そう考えた時、あることに気づきました。仮住まいの暮らしをしながら、故郷のことを思い、いつか帰る日のために備えをする。これは何も留学生だけではなく、全てのクリスチャンが持っている心なんじゃないか。この地上という仮住まいの暮らしの中から、天の故郷に帰る日を思い描きながら今おかれた場所で精一杯今を生きること。これはクリスチャンのアイデンティティと言っても良いと思います。(ヘブル11:13)このクリスチャンのアイデンティティをペテロは別の言い方で表現しています。

「寄留している選ばれた人たち」(1ペテロ1:1)

 

Sojourners 寄留者(παρεπιδήμοις)

寄留者とは故郷に戻る日を待ちわびて旅をする民です。当時ペテロが手紙を書いたのは地中海中に散らされていたユダヤ人に向けてでした。英語ではsojourner。日本語の新改訳聖書では「寄留者」、また新共同訳聖書では「仮住まいする人々」と訳しています。故郷に戻ることを夢見ながら、今の地で生きている人々。文化が全く異なる新しい地で、いつか国に帰ることを目指している人々。彼らは新しい地であまり歓迎されません。当時のローマ社会においては特に寄留者は社会的にも低い立場で虐げられた人々でした。

Chosen 選ばれた人々(ἐκλεκτοῖς)

そしてペテロはクリスチャンを表現するためにもう一つの単語を使います。「選ばれた者」英語ではchosen,またはelect。これは新約でも旧約でも聖書に何度も出てくる表現です。旧約聖書ではイスラエルのことを指す言葉として使われます。(詩篇105:6)そして新約聖書ではイエスキリストを信じる人々を指す言葉として使われます。そしてペテロは次の2章でより詳しく「選ばれた」ことがどういうことなのかさらに進んでこう記しています。

1ペテロ2:9「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。」
王の王である神様に選ばれ、王の王に仕えるもの、聖なる国民とされたもの。クリスチャンは天においてそれだけ特別な存在だとペテロは記しています。

Chosen(選ばれた)+Sojourners(寄留者達)

この二つを合わせると「寄留する選ばれた者」。社会的弱者だった寄留者+王に選ばれた特権階級。この二つの単語は通常一緒に使われることはない単語です。例えばホームレス大富豪とか、優しい極悪人みたいな、ほとんど矛盾するような二つの言葉だったんです。実際ペテロが1ペテロにおいてこの二つの単語を同時に使用するまで、この二つの単語がセットで使われることはそれ以前の文献には登場しません。

しかしこの「あり得ない組み合わせ」こそが地上に生きるクリスチャンのアイデンティティを表しています。神の国の民というアイデンティティを持ちながら、今この地上において仮住まいの生活をしている。この2つのアイデンティティの緊張関係の中に私たちは生きています。そしてその緊張関係は私たちの生活全てに影響していきます。学問、政治、科学、歴史、人間関係、仕事に至るまで全ての領域を「選ばれた」神の国の民として、また同時に「寄留者」として、両方の視点を持って考えていかなければいけません。

そして私はこの二つのアイデンティティの分岐点にあるのが神学だと思っています。クリスチャンとしてどうこの地上を生きていくのか。聖書を「生きる」とはどういう意味なのか。「選ばれた」アイデンティティだけに偏ってしまうと現実逃避的な生き方になってしまいますし、「寄留者」としてこの世の価値観だけを歩んでしまうと流されてしまいます。今、この時代を生きる中で聖書が私たちに何を語りかけ、私たちはそれにどう応答するか。その難問と格闘するのが神学校で学ぶことの一つの意義だと思っています。

選ばれた寄留者として。またアメリカの神学校に寄留している者として、学んでいる内容を少しずつ日本語でご紹介できればと願います。

岡谷和作